翌日、数馬さんは弟と蔵の様子を確認しました。会社の建物6棟のうち、比較的無事だったのは2棟のみ。地盤沈下や壁の落下もひどく、床には割れた酒瓶が転がり、仕込み蔵には泥が入り込みました。
「経営者を十数年務め、ネガティブになっても状況は変わらない、というのは嫌というほど理解しています。まずは建物や社員さんの状況など、被害の把握から着手しました」
入社5カ月で社長に
数馬酒造は、地元産の原料にこだわっています。代表銘柄「竹葉」は、しっかりとしたうまみがありながら軽やかで飲みやすいと、濃い日本酒が苦手な人や外国人にも人気で、販路も県外や海外に広がっています。銘柄数は約30種類で、従業員数は18人(2024年6月現在)です。
数馬さんは東京の大学に進学後、起業を目指して一度はコンサルタント会社に就職します。
23歳のとき、友人に「30歳で経営者になりたい」と話すと、「7年間は何を待っているの?」と返されました。
「ハッとしました。待つ理由なんてないのかなと」
ちょうどそのタイミングで社長だった父からも「そろそろ(会社を)手伝わないか?」と声がかかりました。「この道なら、最短で経営者になれるかもしれない」と、24歳で数馬酒造に入ります。
社長就任はその5カ月後でした。ある日、父に社長室に呼ばれ、「社長をやるか?やると言うなら来月から任せる」と告げられたのです。
「就任後、経営者として分からないことだらけでしたが、父に相談しても『お前が社長だから、責任を持って自分で考えてやれ』と…」
泊まりこみ廃止・女性社員が増加
経営トップの役割を知るため、数馬さんは750人もの経営者に手紙を出します。さらに継承後、最初の2年間はとにかく人に会い、良いと思うことをどんどん採り入れました。
その中で、師となった経営者からのアドバイスが血肉になりました。
「その一つは『自分がされて嫌なことをしない』というものです。もう一つ、僕の中では、働きやすい醸造環境なら酒質も向上するという仮説がありました」
酒造りの現場は長年、杜氏(酒造りの責任者)や蔵人たちが季節労働者として泊まり込みで作業する形が主流でした。
しかし、数馬さんは「自分も長期間働くことに抵抗がある環境で、社員に働いてもらうのはどうなのか」と疑問を持ち、改革に着手します。
2015年、新卒で入社した27歳の社員を醸造責任者に据え、少しずつ設備投資などを進めました。現在、醸造に従事する社員の平均年齢は30代前半。午前8時半から午後5時の作業で、早朝深夜の作業や泊まりこみの作業は廃止しました。
会社に入った当初は男性が多かった社員も、現在の男女比はおおよそ4対6。子育て中の女性も複数人います。
「例えば、重いものを運ばなくていいように、クレーンや高く持ち上げずに物を移動できる機械を導入するなど、社員が主体となった改善を続けています」
世界規模の品評会で金メダル
数馬酒造で使う酒米はすべて能登の契約農家が栽培したものです。各銘柄ごとに単一の農家が作った米で仕込み、商品ごとに原材料、生産者が誰なのかを明確にしています。
2014年からはパートナー農家の協力のもと、能登の耕作放棄地を水田に変える取り組みを進めています。これまで東京ドーム6個分の放棄地が、田んぼに生まれ変わりました。同年には、石川県の大学生と酒造りに取り組む「N-project」もスタート。今も継続しています。
こうした取り組みが評価され、数馬酒造は「はばたく中小企業・小規模事業者300社」などに認定されました。
また、代表銘柄の「竹葉 生酛純米 奥能登」は2020年、世界最大規模のワイン品評会「IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)」SAKE部門で、金メダルとリージョナルトロフィーに輝きました。2023年にも「竹葉 瓶内後発酵純米酒」がIWCの部門最高位の「トロフィー」を獲得しています。
能登半島地震は、数馬酒造が勢いを増していた矢先の災禍でした。
「残ったものから考えよう」
数馬さんは震災直後、経営の原理原則に立ち返りました。
「自分が保有しているもの、被災して残ったものから考えようと思いました。会計士さんと、どのくらいの投資なら許容できるかを確認し、自分がコントロールできることに集中しました」
震災後、会社を稼働させたのは1週間後です。専門家の建物調査をもとに、立ち入りが危険な場所を把握しました。まずは通路を確保するため、割れた扉や酒瓶の片付け、汚泥の清掃を行いながら、無事だった商品をピックアップし、移動させました。
被害は広範囲で、断水のため、汚泥の清掃は思うように進みません。余震も続く中、避難所や被災した自宅での生活で、体調を崩す社員が相次ぎます。数馬さんは復旧作業を午前のみとするなど、社員の健康と安全を最優先にしました。
雇用調整助成金なども利用しながら「給料は満額支給すると決めていた」と数馬さんは言います。
宮城の酒蔵がもろみを「救出」
復旧復興に向け、数馬さんは被災経験のある酒蔵や企業へのヒアリングも進めました。
このとき、大きな力になった酒蔵の一つが宮城県の老舗酒蔵・新澤醸造店です。
地震発生12日後の1月13日、数馬さんに一本の電話がかかってきました。
「今、数馬酒造の前にいる」
声の主は、IWCの授賞式で知り合った新澤醸造店社長・新澤巖夫さんでした。東日本大震災を経験した新澤さんは、能登半島地震を受けて駆けつけたのです。
新澤さんは被災状況を確認し、数日後にはタンクローリーで再度訪問します。水を供給し、数馬酒造の純米吟醸酒のもろみ(酒になる前段階の状態)をタンクに入れて「救出」。もろみは1週間後、新澤醸造店で酒になって無事に瓶詰されました。
1月19日には、石川県酒造組合連合会の呼びかけで、小松市の酒蔵・加越、加賀市の酒販店・辻酒販、白山市の酒蔵・車多酒造、吉田酒造店、福光屋も駆けつけ、「竹葉 能登純米」のもろみが搬出されました。
その後も、県内外の酒蔵(車多酒造、吉田酒造店、岡崎酒造、赤武酒造)との共同醸造が進んだことで、来期の酒米をほぼ同数量で、能登の農家に発注できました。
「水が使えない状態なので、発酵途中のものはあきらめるしかないかな、と思っていました。道路がひどい状況の中、皆さんが奥能登まで足を運んでもろみを搬出してくださり、日本酒造りを進められました」
酒造り再開の日を先に決める
2月に入ると、各部署の責任者による会議を行い、数馬さんは「3月26日に酒造りを再開する」と決めました。断水がいつ解消されるか全くわからない状況での決意表明でした。
それは、新澤さんからの「我々は酒を造る会社だから、断水や外部環境のことはひとまず考えず、この日に酒造りを再開すると日時を決めればいい」というアドバイスを受けたものでした。
数馬さんは再開日から逆算し、酒蔵内の復旧作業や商品の出荷作業を進めます。その間、共同醸造先の酒蔵で日本酒が完成するという、うれしい出来事もありました。
やっと水道が使えるようになったのは、3月12日。数馬酒造は4月1日、自社での酒造りを再開しました。
例年だと、酒造りの時期は過ぎており、通常の仕込み蔵の使用も難しい状況でした。通年で酒造りをしている会社に、必要な設備や環境をヒアリングしたといいます。数馬酒造の冷蔵室の中で温度管理に注意しながら、酒を仕込みました。
数馬さんが常に心がけたのは前を向くこと、そして異例続きの状況を「新たな挑戦」と捉え、未来の話をすることでした。
「それぞれ被災している中、日を追うごとに出社する社員が増えていきました。お酒の瓶を片付ける作業は、すごくむなしくてつらいんです。だからこそ、この先のビジョンや新たな取り組みなど、いつも以上に未来の話を心がけました」
コロナ禍の経験を生かして
経営への影響について、数馬さんは「後ろ向きになる状況ではない」と言います。
「ダメージはありますが、応援してくださる方も多く、他の酒蔵様からのご支援のおかげで、酒造りを続けられています」
コロナ禍で売り上げが落ちたとき、数馬さんは収入がゼロになった場合のシミュレーションを立てていました。その経験が震災でも生きたといいます。
「例えば、収入がゼロになったと仮定して、手元資金で何カ月、経営が維持できるかを測定する指標を毎月把握し、管理しています。焦って平常心ではない状態で意思決定すると経営の歯車が狂うので、指標があってよかったです」
「能登を醸す」はぶれない
建物の解体、修繕はなかなか進んでいません(2024年7月現在)。それでも、製造・販売状況は6割くらいに戻っています。
奥能登には11の酒蔵があります。震災後、稼働できない酒蔵もある中で、「能登の酒を止めるな! 被災日本酒蔵共同醸造支援プロジェクト」が立ち上がりました。白山市の吉田酒造店の呼びかけでクラウドファンディングを実施し、共同醸造などで完成した酒を返礼品とする企画です。
酒蔵同士で集まったり、個別にオンラインミーティングを行ったりする中で、数馬さんは「それぞれ悩みはありますが、皆さん、前を向いて進んでいる」と感じたそうです。
良い経営者がいる地域はなくならない、と数馬さんは信じています。
「経営人材を育成する機能や仕組みを、官民で一緒に作れる地域にできたらと思っています。しっかりした経営者が多ければ、地域に雇用がうまれ、発展します。経営者としてできることの延長線に、そういう未来があるといいなと思います」
数馬さんは被災後、「またおいしいお酒を頼むね」といった多くの顧客からの励ましを受けました。
「色々な方の行動や言葉に助けられました。これまで自分が取り組んできたことが、復興につながっており、日々の積み重ねが大事だと改めて感じました」
生産体制が元通りになる見通しはまだ立ちません。それでも「能登を醸す」という理念は、震災後もぶれることはありません。
「被災前と変わらず、商品の質、社員の労働環境はもちろん、地域への貢献度が大きい会社になれるよう、一つずつ取り組みます」