目次

  1. 「地産地創」のオリジナルブランド
  2. ブランドごとにチームを編成
  3. 組織の理想像はサッカーチーム
  4. キャプテンを決めて多面評価を導入
  5. 改革はゴタゴタの連続
  6. 現場の声が商品開発に
  7. 若手時代も改革の陣頭指揮
  8. ラブコールに応えて「二足の草鞋」

 「ぼくらが靴を履き始めて150年あまり。そろそろ欧米のモノマネではない、自他ともに認めるMADE IN JAPANをつくりたかった」

 宮城興業は2025年1月、オリジナルブランド「アースフル」を始動させました。コンセプトは「地産地創」。究極のエコロジー社会だったといわれる江戸時代のありようを一足の靴に込める試みです。

2025年1月にデビューしたアースフル。ファーストモデルはその名も「エド」(5万9400円)(宮城興業提供)
2025年1月にデビューしたアースフル。ファーストモデルはその名も「エド」(5万9400円)(宮城興業提供)

 そのすべてを国内でまかなうルートを確保しており、革は地生、すなわち日本産原皮のみを使用しています。

 日本由来のものづくりは原材料にとどまりません。靴の元となる木型は欧米のそれではなく、下駄や草履の設計思想を応用しています。木型は革を釣り込み、成型するための型であり、履き心地を大きく左右するものです。

 工場を母体とするブランドだけあって、アフターケアの態勢は万全です。生産過程で生じる端材も積極的に活用。パズルのようなソールは端材を組み合わせてつくられています。

 販売は受注生産を採りました。

 「数をつくって一足あたりの単価を抑えるというのは古い時代の価値観です。もちろんそのシステムにより世界中の人々が靴を履けるようになった恩恵を否定するものではありません。しかしながら、作業効率を優先したものづくりは多くのものを犠牲にしてきました。そろそろ次の一歩を踏み出してもいいんじゃないかと思っています」

 2024年3月に5代目社長に就任した荒井さんの集大成的なブランドであり、その木型も四半世紀のキャリアをもつ荒井さんが、試行錯誤の末にたどり着いたもの。宮城興業の六つ目のオリジナルブランドとなります。価格は5万円台からです。

 宮城興業は年3万足の生産能力を有する靴工場で、社員数はおよそ50人を数えます。OEMとオリジナルブランドの比率は5:5。オリジナルには社名を冠した「ミヤギコウギョウ」をはじめとしたドレスシューズと、コンフォートシューズがラインアップされます。

山形県南陽市の本社ショールームには、各ブランドの靴が並びます(宮城興業提供)
山形県南陽市の本社ショールームには、各ブランドの靴が並びます(宮城興業提供)

 原材料の高騰などが響き、宮城興業は赤字続きでしたが、荒井さんの社長就任1年目は黒字に転換しました。

 要因はオリジナルブランド群の値上げにあります。上代はおよそ2〜3割上昇しました。といっても同等クラスのブランドに比べればけして高くありません。もともとの価格設定が低すぎたのです。

 とはいえ取引先にしてみれば鷹揚に構えてばかりもいられません。結果、離れていく取引先もありました。この穴を埋めるべく注力したのが直販です。荒井さんは、全国の専門店や百貨店などの催事に積極的に出店する方向へかじを切りました。

 この荒療治を推し進めるために踏み切った社内改革が、ブランドごとのチーム編成です。

 「ひとたび生産が始まれば、(生産)ラインはブラックボックス化します。最たるものが人件費です。同時に複数のブランドが流れる現場からはどのブランドにどれだけの労力をかけたのかがまるでみえてきませんでした。価格を見直そうにも、その根拠となるものがなかったのです」

 荒井さんは原材料費から人件費にいたるそのすべてが、チームのなかで完結する仕組みをつくりました。各ブランドの値上げはこれをもとに算出しました。

荒井さんは役職を廃止し、ブランドごとのチーム制を導入しました(宮城興業提供)
荒井さんは役職を廃止し、ブランドごとのチーム制を導入しました(宮城興業提供)

 チーム制にはまた別の思いもありました。それは目の前の仕事を自分ごととしてとらえてもらいたい、というものでした。

 「少々口幅ったいのですが、ここ数年の宮城興業からは靴への愛が失われていたように思うんです。しかしそれも仕方のないことです。流れ作業でノルマに追われる日々では、できあがった靴を想像することもみずからの仕事を誇ることも難しい。主体性をもって仕事に取り組むにはどうすればいいか。その答えがチーム制でした」

 荒井さんは理想とするチーム像をサッカーのそれになぞらえます。

 「監督としてポジションは決めるけれど、キックオフの笛が鳴れば、あとは現場判断で自由に動いてもらっていい。人手の足りない工程があればその技術を身につけたっていいし、何ならみずから営業して注文をとってきたっていいと思っています。ディフェンダーがゴールを決めるように」

 編成にあたり、「未来の職業アンケート」を実施、この結果をもとに面談を行いました。アンケートは現在の能力と意欲を測る内容で、中長期的にその資質を判断しました。

従業員の平均年齢は40代。働き盛りがそろいます(宮城興業提供)
従業員の平均年齢は40代。働き盛りがそろいます(宮城興業提供)

 チーム制の導入と同時に役職を廃止しました。

 「一人ひとりが考え、みなで答えを出そうと思えば、その関係は対等でなければなりません。それには上司部下という関係を取っ払う必要がある。そもそもこれまでの宮城興業は上下関係が十分に機能していなかった。機能していないなら失くしたっていい」

 代わりに設けたのがキャプテンです。いわゆるまとめ役で、荒井さんの判断を仰ぎつつ、現場を盛り立てます。キャプテンは自薦とし、自薦がなかったチームは推薦というかたちで決めました。

 査定にもメスを入れ、多面評価を採用します。多面評価は社員同士で評価を行う制度です。社員は十数に上る項目で同僚を採点します。管理職が使用していた評価シートを流用しました。

 「客観性の担保が問題になりますが、同僚が採点者となることで緊張感をもって仕事に臨む効果を重視しました」

革を一枚一枚手裁ちしています(宮城興業提供)
革を一枚一枚手裁ちしています(宮城興業提供)

 大きな反発はなかったものの、これだけの改革ですから一朝一夕にはいきません。当初はゴタゴタの連続だったと苦笑いを浮かべます。

 「チーム内で処理できない工程も少なからずあります。手薄な部分をケアするために、よそのチームから職人を借りる仕組みをつくりました。助っ人の動向は出向記録簿でチェックします」

 「この仕組みがいさかいの種になりました。あのチームは毎度のようにうちの職人を使っている。自分たちで育てたらどうか、というわけです。出向を減らすために数人の職人を入れ替えました」

 元管理職への処遇にも不満の声が上がりました。役職は廃止しましたが、その手当は減額しつつ支給しています。

 「管理職としての責任を負っていないのにおかしいのではないか」という声に対し、これまでの労いとこれからへの期待である旨伝え、理解を求めました。

 社員の意識は変わりつつあります。くだんの「アースフル」では現場の声が商品開発に生かされています。

 ブランド名を考案したのも現場なら、パズル様のソールのアイデアを出し、かたちにしたのも現場でした。ブランド名はフランス語で「職人」を意味する「アルチザン」と「ユースフル」の造語です。

ソールは端材を利活用しています(宮城興業提供)
ソールは端材を利活用しています(宮城興業提供)

 社内改革の仕上げにコミュニケーションをサポートするツールとしてクラウド型ビジネスチャットツール・LINE WORKSを導入しました。職人のスケジュールから生産状況までが一括して管理・共有できる仕組みです。

 「工場内は広く、目当ての職人を探すだけでもけっこうな無駄が生じていたんです」。それは二足の草鞋を履く荒井さんにとっても欠かせないツールでした。

 「業界はぼくが片足を突っ込んだ当時から未来がないっていわれていました。右肩下がりであることは否めないけれど、30年経ったいまもなんとかやれている。ぼくはこの道を信じてこれからも歩んでいきたいと思っています」

 宮城興業は1941年に仙台市で創業した靴工場がそのルーツです。戦時中に山形県南陽市に疎開し、現在にいたります。軍靴製造を経て、戦後は大手革靴メーカーの下請けとして知る人ぞ知る存在に。

 海外への産地移転でその商売が下火になると、デザイナーブランドなどの新興勢力との取引を強化します。ロットがまとまらず、作業は煩雑になりましたが、現場には柔軟性が生まれ、デザインをみる目も養われました。

 小ロット生産のノウハウを生かし、パターンオーダーのオリジナルブランドも展開します。

 そんな宮城興業の原動力となったのが荒井さんをはじめとした若手でした。

 ものづくりに興味があった荒井さんは、山形大学在学中に宮城興業の門を叩きます。工場はちょうどリストラしたばかりで人を雇う余裕がありません。けんもほろろにあしらわれますが、荒井さんはめげずに足を運びます。

現会長の高橋和義さん(左)と荒井さん(宮城興業提供)
現会長の高橋和義さん(左)と荒井さん(宮城興業提供)

 現会長で当時専務だった高橋和義さんは根負けしてアルバイトとして働くことを認めました。ほどなく、荒井さんの後を追うように次々と若者が押し寄せます。

 1990年代、日本は空前の靴職人ブームを迎えました。バブルがはじけ、終身雇用や年功序列という制度が音を立てて崩れるさまを間近にみてきた若者は、手に職をつける昔ながらの生き方を選んだのです。社員の平均年齢は40代。高齢化と無縁でいられたのは、彼らの受け皿となってきたからです。

 デザイナーブランドとの取引を大きな柱に育てることができたのも、瑞々しい感性をそなえる若手の層が厚かったからにほかなりません。その陣頭指揮をとったのが荒井さんです。

 次々とあらたなデザイナーブランドを開拓していった若かりしころを振り返り、「あのころは万能感に浸っていました」と笑いました。

 荒井さんは10年あまり勤めた宮城興業を2008年に退社し、靴の一大産地である東京・浅草に荒井弘史靴研究所を設立します。「この業界に入ったのは自分の靴がつくりたかったから。その情熱がよみがえったのです」

 荒井さんはテーブルメーカー(発注者に代わり、生産にまつわる諸々を請け負うアパレル業界特有の中間業種)として活躍するかたわら、自身のブランドを発表します。その靴はバーニーズニューヨークにも並びました。

 宮城興業の後継者として白羽の矢が立ったのは、先代の高橋さんから厚い信頼を得ていたからこそでした。荒井さんは荒井弘史靴研究所の事業を継続する二足の草鞋を選び、現在は山形と東京を1週間ごとに行き来する日々を送っています。

 「古巣からのラブコールです。応えないわけにはいきませんでした」

 会長の高橋さんは荒井さんを「研修生第1号」と名づけてかわいがってきました。荒井さんが独立する際には「うちの東京出張所という位置づけでやったらどうか」と提案、事業が軌道に乗るまでをサポートしてくれました。

宮城興業の靴は地元山形のスーパーの催事などでも販売しています(宮城興業提供)
宮城興業の靴は地元山形のスーパーの催事などでも販売しています(宮城興業提供)

 オリジナルブランドの「ミヤギコウギョウ」は退社を決めた荒井さんが置き土産としてつくったブランドです。

 ブリティッシュトラッドをコンセプトにした「ミヤギコウギョウ」は工場の技術証明をするためのものでした。

 本場に比べても引けをとらない完成度を誇ったその靴は、日本はおろか海外でも高く評価されましたが、現在は規模を縮小しています。荒井さんが望む水準に達していなかったというのがその理由です。この春にリスタートを切るべく、着々と準備を進めています。