4代目の経営課題はECサイト

 石黒さんは、日野製薬の創業家ながら生まれも育ちも東京です。大学卒業後はSEや業務コンサルタントの職に就き、家業を継ぐことは考えてもいませんでした。
 業務コンサルタントとして、石黒さんは地方を飛び回り、製造業の経営者たちと仕事をしてきました。「皆さん自分の会社の製品・サービスにものすごい思い入れがあって、会社の文化の継承のために相当の努力をしている。自分も残りの人生をそういうことに懸けなければいけないのでは、と考えるようになりました」

 石黒さんは2018年5月に日野製薬に入社、2019年12月に社長を継ぎました。すぐに石黒さんはECの強化に動きます。会社は製品の卸売、直営店での販売、カタログでの通信販売・ECの販路を持っています。ECサイトを立ち上げたのは10年ほど前。17年にはサイトをリニューアルし、売り上げが伸びた時期もあったものの、最近は前年同月比で横ばいが続いていました。

百草丸の製造工程

 顧客サービスの向上を考えた時に、ECの強化は外せないポイントでした。ただ、EC担当は石黒さんを含めて3人。皆他の仕事と兼務していて、事業にじっくり向き合うことが難しかったといいます。

「スキルを持つ人の採用は難しい」

 石黒さんは正社員で求人を出しました。ハローワークにも登録しましたが、マッチする人が見つかりませんでした。「長野の山奥でECを強化できるスキルを持つ人の採用はものすごく難しい」。石黒さんは、壁に突き当たります。

 そんな時、長野県のプロフェッショナル人材戦略拠点(プロ人材拠点)から「副業・兼業という働き方なら、人材を採用できるかもしれない」と声が掛かります。プロ人材拠点とは、さまざまな分野のスキルを持つ人材と地方企業とをマッチングする国の事業で、東京都と沖縄県を除く45道府県に設置されています。

日野製薬のECチーム

 「副業・兼業という言葉は知っていましたが、自分の会社の募集はフルタイムと考えていたので、副業・兼業の人を採用することは頭の中にありませんでした」と石黒さんは振り返ります。プロ人材拠点を通じ、副業人材と地域の中小企業のマッチングサービスを提供する「JOINS」の枠組みを使い、募集を1月にスタートしました。

副業人材との契約で重視した3つの点

 副業人材と契約する上で、石黒さんは3つの点を重視しました。一つ目はEC事業の売り上げ目標を確実に達成できる人かどうか。二つ目はスキルと実績。そして最後に会社の文化や価値観を理解してくれるかどうかです。複数の希望者と面談を進める中で、過去に副業をした会社でどれぐらいの実績を上げたかを説明し、「目標を達成します」と言い切った男性がいました。

 男性は東京の大手小売り企業でデジタルマーケティング業務を行いながら、その知見を副業で生かしています。男性が古くから伝わる「百草」という製品をしっかりと理解してくれたこと、「新しいマーケティング手法を取り入れ、柔軟にEC事業のやり方を見直したい」という会社側の求める能力を持っていたことが採用の決め手になりました。オンラインを含めた2回の面談を経て2月に契約を結びました。

「副業」ではなく「セミ社員」

 石黒さんは「副業」ではなく「セミ社員」という言葉を使います。「社員という言葉を使うことで、距離感が一気に縮まる」との思いからです。

 男性は今年3月から、日野製薬での仕事をスタート。今は1カ月に32時間ほど勤務しています。今は石黒さんと「セミ社員」の男性を含め計5人がECに関わっています。

 セミ社員の男性は2次面談の段階で、石黒さんにEC売り上げ増の戦略を示していました。①ECサイトに流入する人を増やす②サイトに流入した人に商品を買ってもらう――この2つのKPI(成果指標)に向かって業務を進めています。
 実際どのような働き方をしているのでしょうか。男性は原則リモートワークで週8時間程度勤務しています。週に1回、ウェブ会議システムを使い、石黒さんらと定例会議を行っています。会議には、石黒さん、担当社員、外部のウェブ制作会社の担当者とセミ社員の男性計5人が参加します。

 定例会議の前に、セミ社員の男性がKPIの1週間のデータを集計して目標数値との差を分析します。会議ではその分析結果を見ながら前週の施策の検証をして、今週の施策と役割分担を決定。セミ社員の男性にも経験値がないとできないようなタスクを引き取ってもらい、5時間程度をかけて実行してもらいます。このサイクルを毎週繰り返しています。

初月から売り上げ増加

 男性が仕事をスタートした3月から単月のECの売上高が前年同月比で20%伸びました。売り上げが伸びたのは何が変わったからなのでしょうか。
 この問いに石黒さんはすぐに「ECサイト改善の管理(PDCAサイクル)を週次で徹底できるようになったことが最も大きい」と答えます。目標とする売上高や利益と、実績値がかけ離れていた場合、目標値達成のためにどんなアクションが必要かの紐づけがこれまではあいまいな部分がありました。週ごとに細かい部分まで改善していくことで、サービスの向上につながり、結果として売り上げが伸びるという好循環が生まれているのです。

 石黒さんは、セミ社員の男性が現場で働く前、会社のメンバーとうまくやっていけるか少しだけ気にかけていました。しかし、男性のマーケティングのプロとしての作業の進め方や人柄の良さで、全く問題がなかったといいます。

 セミ社員の男性は、ECの売り上げ目標に対して現状達成できているかを確認し、弱い部分をどう強化するか具体案を出します。男性はECサイトに流入してくる人がSNSやメルマガなどどこから入っているかを洗い出し、どの部分に注力すればいいのかもう一段細かい目標を出しました。また、商品を注文してくれた人に送るメールの文面も温かみがある文章に見直しました。

注文者へのお礼のメール

 石黒さんは「リモート副業の人材と出会うことは、場所の制約にとらわれることなく会社が成果を出せることにつながります。過疎地でも地域の良さをフルに発揮し、将来を描けるとてもありがたい仕組みです」と話します。

 セミ社員の男性を社員として雇いたい気持ちはなかったのでしょうか。石黒さんは次のように答えます。
 「フルタイムで採用した場合、残りの時間で本人の得意ではないことまでやっていただかなくてはいけなくなってしまう。私たちが必要とするスキルを持つスペシャリストに無理をして他の業務を担当いただく必要はないと考えます。逆にそのスキルを他社に生かしてほしい。そしてよりレベルアップされて私たちの会社に還元いただきたい。私たちの会社では限られた経営資源で他の業務分野でスキルがある人をセミ社員で雇えばいいと考えるようになりました。実は8月からは新たに営業分野でも名古屋在住のセミ社員を採用して、名古屋エリアの市場調査・分析を担当してもらっています」

 「フルタイムで採用すると得意でないことをやってもらわないといけなくなる」。石黒さんのこの言葉は私にとって衝撃的でした。企業が支払うリモート副業人材への平均報酬は月30時間程度で約10万円程度(JOINS実績)です。

 週5日働いてもらうのではなく、必要な業務分野ごとに必要な時間分だけ働いてもらいその分だけ報酬を支払う。そして使い捨てのような関係でなく、あくまでも社員(中の人)として継続的に働いてもらう。そんな人材の採用が副業解禁とリモートワークの普及によってできるようになってきたのだと思います。この働き方は企業にとっても個人にとっても「しなやかなさ」と「豊さ」をもたらす世界ではないかとワクワクしています。