商売人の息子、接客は「向いていた」

――家業は1917年創業の老舗洋品店だそうですね。どんな思い出がありますか?

 熊本市内で100年前から商売を営んできました。商店街のなかの店の上、2階が家でした。部活のない日は店番をやって、年が明ければ「福袋いかがですか」と商店街に向かって叫んでいました。

――たくさんの洋服を扱っている実家で、服への意識が芽生えたのでしょうか?

 ふたつ気づいたことがあります。ひとつは、「あの人から買いたい」というのは最強だということです。ショッピングセンターやユニクロが近くにできましたが、みんなうちの実家を目がけて来てくれる。これって最強だな、と。

 ふたつ目は「洋服ってその人の明日を変えられる」ということです。買った次の日、着ていくときにわくわくしますよね。間近に見ていた実感として、すごい力を持ったものなんだなと思っていました。

子どもの頃の山田さん。お兄さんが「教師になる」と決め、自然と後を継ぐのは山田さん、という流れになったといいます
子どもの頃の山田さん。お兄さんが「教師になる」と決め、自然と後を継ぐのは山田さん、という流れになったといいます

――「後を継ぐ」というのはいつぐらいから意識しましたか?

 小学5年生ぐらいですかね。中学1年の兄が「小学校の先生になりたい」と決めたんです。しっかり者の長男と、コミュ力の高い次男という役割分担で、どちらかというと接客に向いていたのは自分だったのかな?と今となっては思います。

――ご両親から「継いで」と言われたことはありましたか?

 直接的にはありませんでした。ただ、商売人って店の上に家があって、仕事とプライベートが一体化しています。定休日は1日だけ。継ぐことは当たり前になっていたのかもしれませんね。

――大学では熊本を出て商学部に進学しました。

 大学は県外に出て、20代後半で熊本に戻って店を継ぐ。両親もそのイメージでしたし、僕もそうでした。

ベースに「ものづくり」があったグッチ

――大学生の時、交換留学でフランスへ。グッチ・パリ店で働いたそうですね。

 僕は運があんまりない人間なんですよ(笑)。着いた初日にスリ被害に遭って一文無しになったり、フランスで親知らずが痛くなって2本抜いたり、泥棒に入られたり……。だから単位を取りながらも稼がなきゃいけなかったんです。

 せっかくだから洋服に関係あることをしたいとパリのブランドにも履歴書を送りました。唯一、返ってきたのがグッチだけだったんです。

 最初は地下のストック整理で、そのあとは裏でラッピング係、レジ裏の免税手続きと仕事が変わりました。最後の最後に、奇跡的にお店に立てたけど、基本的には裏方でしたね。

――ここでフランスの「ものづくり」へのこだわりを学んだのでしょうか?

 工房から始まったグッチやエルメスといったブランドは、「戻るべきものがある」ことを大切にしていました。新進気鋭のデザイナーを登用しても、ベースに「ものづくり」があるので、「グッチっぽい」「エルメスっぽい」ものが残るんです。

グッチ・パリ店で働いていた山田さん
グッチ・パリ店で働いていた山田さん

 日本でもデザイナーズブランドが一世を風靡していましたが、デザイナーにひもづいていて、実際に服をつくるのはアジアといった海外でした。本来は日本のものづくりって、泥染めや織りといった繊細なものがあります。独創的な発想によるデザインだけでは、語れるストーリーの重厚感がなくなってしまいます。

 グッチのスタッフからは、「日本にはいいものづくりがあるのにもったいない」と言われました。日本のものづくりを立て直し、それを届ける一流のブランドをつくりたいと考えるようになりました。

「作り手を感じたい」思い

――服を選ぶ基準が「ファッション性」「経済性」になってしまっているという危機感があったんですね。

 ファッションに限らず、昔は食卓におにぎりがあったら、お母さんがつくったのか、おばあちゃんがつくったのか、と分かりましたよね。それが「安く」「どこでも食べられるように」と、工業製品としてのおにぎりが並び始めます。

 そうすると、服に限らず、ジャケ買いか、値段が安いから買う、しか残りませんよね。

 僕はこれはさびしいなと思ったんです。「あの人から買いたい」の強さを家業で学んでいたからこそ、コミュニケーションで作り手を感じたいと思っていました。味気なく、それを食べても栄養になっている感じがしない……。心も体も喜んでいないなというのは感じていたんですよね。

飛び込み営業で人より努力

――日本に戻り、大学卒業後は中小企業に就職したんですね。

 僕は意志がそんなに強くないので、大きな会社の名刺を持ってしまうと、ちやほやされてしまって起業とか継ぐとか無理だろうなと思ったんです。

 OB訪問で「経営とは営業だ」「無形商材の方が売るのが大変で人間力が必要」と言われ、大きな会社より小さな会社の方が、将来自分がやるときにイメージができるんだろうなと、50人ぐらいのインターネット求人広告の会社に就職しました。

――会社はどんな雰囲気だったんですか?

 入社時の合宿が、白装束に着替えて駅の前で歌うといった内容でした(笑)。最初の頃は電話をかけても飛び込み営業をしても全然ダメで、「人より努力をしないといけない」と、数をやり続けて、花が開いていきましたね。

マネージャーから倉庫アルバイトへ

――最年少で事業部マネージャーとなり、4年働いたのち、アパレル業界へ転身します。

 4年間で地道な営業は学べたので、アパレル業界で学びたいと考えました。

 イベント「東京ガールズコレクション」やECサイトをやっていたファッションウォーカーがのびていましたが、求人がありません。

 日本通運に委託していた服の倉庫ならバイトで雇ってもらえるということで、27歳の時、倉庫のアルバイトととしてTシャツ・ジーパンで物を運ぶことをやり始めました。

――正社員からバイトになるというのは、かなりの決断ではありませんでしたか?

 年収が下がり、(前年の収入をもとに計算される)住民税はえぐかったですね(笑)。悪い言い方をすれば「後先考えない」かもしれませんが、良い言い方をすると「ちゅうちょなく踏み出せる」タイプなのかもしれません。何事にも二面性があるので。

――倉庫では「効率化」を本社の人へ直談判したそうですね。

 改善するというのは面倒なので、いくら倉庫の上司へ言っても握りつぶされていましたが、本社の役員が来た時に直接つかまえて「改善案は届いてますか?」と訴えました。すると「お前、面白いから本社に来いよ」と言われて。その人が翌月に社長になったので、自動的に「社長室付」となりました。

ファクトリエで扱っているアイテムをフィッティングできる銀座のスペース
ファクトリエで扱っているアイテムをフィッティングできる銀座のスペース

――その後、東京ガールズコレクションの担当もされて、ECサイトをチェックしている時に感じたことはありましたか?

 色んな気づきがありました。その時のガールズコレクションの売りは、有名ブランドとのコネクションです。でも、倉庫管理やシステムを別会社に依頼していたので、経費はとても高くなっていました。たくさんの売り上げがあってもマイナスになってしまうような。これはなんでだろうな?と。

 さらに、どんどん売る洋服が安くなっていきました。これは自分が目指したいことだったのかな、と思い始めました。

――ちょうどそのとき、SNSのFacebookでグッチのスタッフとやり取りしたそうですね。

 今やっていることを聞かれ、東京ガールズコレクションのYouTubeのリンクを送ったら「え?」とびっくりされました。自分がやりたいと言っていたことと違うことなので、「それがやりたかったの?」と聞かれました。色々と経験したことで、改めて自分がやりたいことに気づけました。

「行動」で生まれた「ご縁」

――2012年1月、ライフスタイルアクセント株式会社を設立。10月に「ファクトリエ」をスタートさせましたが、はじめは一人でトランクを引いて工場をまわっていたんですね。

 資本金は50万円、熊本のアパートで始めました。2年半は僕ひとりで、週末はバイトをしていましたね。「いい工場とこれをつくりたい」という計画があったというよりは、「まずは工場を回らなきゃ!」と思っていました。

――「工場でつくった服を直売しませんか」と1軒1軒、電話をかけて回っていたんですよね。最初に入社した会社での営業時代の経験も生きているのでしょうか。

 僕は「行動」とは、食べて咀嚼することだと思っています。自分は、咀嚼しておなかに入れて栄養にしないと分からないんですよね。

 ある程度、自分が食べまくって「自分に合っている」「合っていない」と考える。だから工場を回って、経験して、血肉にしていきました。

――これまでのお話でも、人との縁で転機を迎えているような気がしました。

 確かに、僕は運はないけど、「縁」はありますね。

 「縁」は「行動」によって生まれるんです。手紙を書いたり電話をしたり、役員をつかまえたり。だからありがたいことに、「縁」は生まれていると思います。

次回は、工場とのつながりをつくり、ファクトリエの取り組みを大きく広げていく過程を聞きました。コロナ禍でも売り上げを更新した理由を、どんな風に考えているのでしょうか?

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山田敏夫

1982年熊本県生まれ。大学在学中、フランスへ留学しグッチ・パリ店で勤務。卒業後、ソフトバンク・ヒューマンキャピタル株式会社へ入社。2010年に東京ガールズコレクションの公式通販サイトを運営する株式会社ファッションウォーカー(現:株式会社ファッション・コ・ラボ)へ転職し、社長直轄の事業開発部にて、最先端のファッションビジネスを経験。2012年、ライフスタイルアクセント株式会社を設立。2014年中小企業基盤整備機構と日経BP社との連携事業「新ジャパンメイド企画」審査員に就任。2015年経産省「平成26年度製造基盤技術実態等調査事業(我が国繊維産地企業の商品開発・販路開拓の在り方に関する調査事業)」を受託。2018年より経産省「若手デザイナー支援コンソーシアム」発起人、毎日ファッション大賞推薦委員。著書「ものがたりのあるものづくり ファクトリエが起こす『服』革命(日経BP社/2018年)」