復興は泥の中から始まった 失敗を恐れない缶詰工場3代目の商品戦略
宮城県石巻市の「木の屋石巻水産」は、新鮮な鯨やサバの缶詰で人気を集めています。2011年の東日本大震災で社屋や工場が全壊し、会社のシンボルだった缶詰型の巨大タンクも倒れました。再建を目指す中、6年前に就任した3代目の木村優哉さん(37)は失敗を恐れず社員のアイデアを尊重することで、SNS発信や牛タンの缶詰などの新商品開発を積極的に進め、売り上げを取り戻していきました。
宮城県石巻市の「木の屋石巻水産」は、新鮮な鯨やサバの缶詰で人気を集めています。2011年の東日本大震災で社屋や工場が全壊し、会社のシンボルだった缶詰型の巨大タンクも倒れました。再建を目指す中、6年前に就任した3代目の木村優哉さん(37)は失敗を恐れず社員のアイデアを尊重することで、SNS発信や牛タンの缶詰などの新商品開発を積極的に進め、売り上げを取り戻していきました。
目次
水産物加工品の製造を行う木の屋石巻水産は、木村さんの祖父が1957年、当時石巻の港に水揚げされていた鯨の行商として創業しました。
やがて缶詰商品の製造を始め、2代目の叔父と父が商品開発にも取り組みました。看板商品は「鯨大和煮」と石巻の港に水揚げされた「金華さば」を使った缶詰です。
同社は魚市場で直接生魚を買い付け、冷凍することなく缶詰にする「フレッシュパック製法」を用いています。木村さんは「うちの缶詰は鮮度が命。魚屋に並ぶより早く缶詰になるので味が違います」と、力強く話します。
魚嫌いの子どもでも食べられると人気で、直売所や通販のほか、宮城県内の小売店や土産物店、都内や静岡県などでも販売されています。社員数約100人で年商は20億円を誇ります。
「私も幼いころによく魚を食べさせられていましたが、今考えると新商品の試食だったのだと思います」と木村さんは振り返ります。
魚は身近な存在でしたが、父からは家業を継ぐように言われたことは一度もありませんでした。「大学卒業後は地元に帰りたかったのですが、父からはどこかに就職をして、好きなことをやりなさいと言われました」
↓ここから続き
東京の大学を卒業後、木村さんは小売業に就職。品出しやレジ打ちなど店舗業務を担いました。しかし、故郷への思いを捨てきれず、就職から1年半後の2008年夏に帰郷しました。
ただ、最初は木の屋石巻水産がお世話になっている会計事務所の事務仕事をしながら、経理の勉強をしました。
木村さんは09年に家業に入り経理の仕事を担当しましたが、現場の仕事に興味があったことから自主的に製造ラインに入り、加工品を缶詰に詰める作業などもこなしました。
木村さんが仕事を覚えている最中の11年3月、東日本大震災が発生しました。震災当日、海の近くの工場にいた木村さんは約2キロ離れた実家に向かいました。
「ラジオから高さ10メートルの津波という言葉が聞こえてきて、避難しようと外に出たら、もう黒い津波が見えたんです。実家の向かい側にあった4階建ての社宅の上に避難しました」
家族は全員無事でしたが、津波で従業員1人が犠牲になりました。さらに震災の2日後に工場へ向かうと、会社のシンボルでもあった「鯨大和煮」の缶詰を模した重さ200トンものタンクが、津波で約300メートルも流されて倒壊しました。
工場は全壊し、1年分にあたる100万缶の在庫を保管していた倉庫も破壊されました。
しかし、泥の中から缶詰が見つかったのです。木村さんは社員と缶詰を持てる分だけ持ち帰り、支援が届くまでの食料にしたほか、近所の避難者にも配りました。
再建へ何から手を付けたら良いのかわからない中、かねて取引があった東京都世田谷区の飲食店主から「泥がついたままでいいから缶詰を送ってほしい」と声がかかりました。
送られた缶詰は世田谷の商店街の人たちが洗い、義援金300円と引き換えに1缶をプレゼントする形で販売されました。
木村さんたちも11年5月から、ボランティアと共に本格的に缶詰を掘り出し始めます。夏場は倉庫に残っていたヘドロのにおいがひどく、あたりはハエだらけの状態でしたが、みんな笑顔で作業していました。木村さんは「こんなに応援していただいていてありがたい」という思いを強くしました。
缶詰を模したタンクが横倒しになった様子がメディアで報じられたこともあって支援の輪は全国に広がり、同年11月までの間に掘り出された約20万缶が各地で販売され、「希望の缶詰」と呼ばれました。
「先代たちは家業の再建は難しいと考えていたようですが、私はずっと再建しようと言っていました。家業のことを何もわかっていなかったからこその発言でしたが、色々な人に助けてもらって『缶詰を待っている』と言われ、しっかり仕事をしなければと決めました」
震災から2年後の13年、木の屋石巻水産は業務用の魚などを扱う石巻市の工場を再建。津波の被害を避けるために、内陸の美里町にも工場を新設し、缶詰の生産を再開しました。
美里町の工場は「人に来てもらえる工場」を目指し、工場見学コース(現在はコロナ禍のため休止)や直売所も設けています。
「震災もあったため、このころになっても家業への知識や理解はまだまだ足りていませんでした」。木村さんは再び製造ラインに入り一通り仕事を学びました。
16年10月、先代社長たちは持ち株会社「木の屋ホールディングス」の経営に専念し、木村さんが木の屋石巻水産の3代目代表取締役として経営を任されました。
先代たちから代表就任を告げられたのは、そのわずか2週間前で、木村さんは戸惑ったといいます。
「来月から社長だからと突然言われて、自分では早すぎると思っていました。ただ、先代は自分たちが元気なうちに引き継ぎたいと思っていたようです」
復興の先頭に立つ若き3代目は、失敗も多々経験しました。看板商品のサバの缶詰は、魚の旬の冬に生産が集中するため、他の商品は必要な量を秋までに作っておく必要があります。
しかし、木村さんの読みが甘くて在庫が少なくなってしまい、冬に社員を休日出勤させることになってしまいました。
「漁獲高はその年によって異なるため、前年の売上数が通用しません。海に合わせた仕事なので、スケジュールが立てにくい点は苦労しました」
今でも小さな失敗はたびたびしてしまうという木村さんは、自身の経験を社内マネジメントに生かしています。
「うちは新人研修はほとんどありません。失敗から気づくことがあると思っているので、すぐ現場で動いてもらっています。失敗のコストが研修費だと思えば安いものです」
木の屋石巻水産では先代のころから、立場を問わず社員のアイデアを積極的に採用しています。
「基本的にまず一回やってみようという方針で、社員のアイデアにもすぐOKを出しているので、意見が通りやすいと思います。自分たちで考えて行動する力が育つんです」
缶詰を使った料理の写真とレシピをSNSで定期的に投稿するようになったのも、社員の発案がきっかけでした。
社外からレシピ考案の協力を得ながら、時には社員自ら調理を行い、SNS映えする写真にもこだわりました。「ずば抜けて何かができる人はなかなかいないと思うんです。いかに団結し、社員と一緒に会社を運営していけるか。うちは総合力で勝負しています」
木の屋石巻水産では震災以降、商品開発の依頼を受ける機会も増えました。アーティストの篠原ともえさんがデザインした缶詰や、タレントの松尾貴史さんとコラボした鯨のレトルトカレーなど話題性の高い商品を生み出しています。
それでも木村さんは代表就任当初から、家業や業界に課題を感じていました。「漁獲高が年々減少しているため、魚や鯨だけの商品では頭打ちになってしまいます。それ以外の缶詰も作れないかと模索していました」
商品開発についても、社員がフラットにアイデアを出し合いながら、機動的に取り組んでいます。
そんな中、営業担当者と取引先との会話から、宮城名物の牛タンを缶詰にできないかとの話題になり、全社一丸となって商品開発に取り掛かりました。
牛タンは魚の缶詰と同じ製法だと、熱がかかりすぎて肉がボソボソとした食感になってしまいます。また、肉の缶詰はどんな味付けが正解なのかがわからず、何度も試作品を作り、理想の味を探りました。
その結果、5年かけて納得のいく肉の柔らかさと味付けを実現させ、20年に「牛たんデミグラスソース煮込み」という名前の缶詰の販売を始めました。
1缶ずつ箱に入れて高級感を出し、プレゼントとしても喜ばれるように見た目にもこだわりました。
「正直、絶対売れないと思っていました」。しかし、地元のテレビ番組で紹介されたこともあり、月平均で24万缶も売れる大ヒット商品になりました。
同じく20年には生産者の依頼で、韓国への輸出量減少の影響を受けていたホヤの缶詰を生産するなど、地元のつながりも大切にしながら商品を生み出してきました。
木村さんは既存商品のリニューアルにも取りかかり、21年に「やわらか鯨カルビ」を発売しました。「使用するクジラの部位を『須の子』という霜降りで柔らかい希少部位に変えました」
若い人にも鯨を味わってもらいたいと、食べるラー油を使用した焼き肉ダレ風の味付けを採用しました。
木の屋石巻水産は、13年に工場を再建してわずか2年で震災直前の売上高を超え、今も震災前と比べて100%以上の売り上げを維持しています。
社員たちは社内販売で缶詰を特別価格で買うことができ、毎回大人気です。
「みんなおいしいものを作っているとわかっているからこそ買うんですよね。納得がいく商品を作りたい思いが強いので、鮮度が少しでも悪い魚を見ると、社員から本当にこれでいいのかと意見を言われることもあります」
自信作の商品を次々と生み出せるのは、木村さんが社員を信頼し、失敗を恐れず挑戦し続けられる環境を整えていることにほかなりません。
「社長になった時も呼び名が変わったくらいにしか感じていなかったので、わからないことはベテラン社員に聞いて学びました。うちはあくまで地方の中小企業。地元を見てつながりを大切にしながら、これからも堅実に社員全員で会社を経営していきたいです」
3代目は社員や地域に寄り添い、共に成長しながら歩みを進めます。
(続きは会員登録で読めます)
ツギノジダイに会員登録をすると、記事全文をお読みいただけます。
おすすめ記事をまとめたメールマガジンも受信できます。
おすすめのニュース、取材余話、イベントの優先案内など「ツギノジダイ」を一層お楽しみいただける情報を定期的に配信しています。メルマガを購読したい方は、会員登録をお願いいたします。
朝日インタラクティブが運営する「ツギノジダイ」は、中小企業の経営者や後継者、後を継ごうか迷っている人たちに寄り添うメディアです。さまざまな事業承継の選択肢や必要な基礎知識を紹介します。
さらに会社を継いだ経営者のインタビューや売り上げアップ、経営改革に役立つ事例など、次の時代を勝ち抜くヒントをお届けします。企業が今ある理由は、顧客に選ばれて続けてきたからです。刻々と変化する経営環境に柔軟に対応し、それぞれの強みを生かせば、さらに成長できます。
ツギノジダイは後継者不足という社会課題の解決に向けて、みなさまと一緒に考えていきます。