経営が傾いた吉祥寺の塚田水産 3代目が総菜をヒントに練った名物
東京・吉祥寺の商店街にある「塚田水産」(武蔵野市)は1945年の創業から変わらず自家製・無添加のさつま揚げやおでん種を作り、ファンの心をつかんでいます。3代目の塚田亮さん(48)は業績が傾いていた家業の高コスト体質を見直して経営を改善。百貨店の催事出店や看板商品「吉祥寺揚げ」の開発で活路を見いだし、コロナ禍や原材料費の高騰にも立ち向かっています。
東京・吉祥寺の商店街にある「塚田水産」(武蔵野市)は1945年の創業から変わらず自家製・無添加のさつま揚げやおでん種を作り、ファンの心をつかんでいます。3代目の塚田亮さん(48)は業績が傾いていた家業の高コスト体質を見直して経営を改善。百貨店の催事出店や看板商品「吉祥寺揚げ」の開発で活路を見いだし、コロナ禍や原材料費の高騰にも立ち向かっています。
吉祥寺駅前の商店街で、ひっきりなしにお客さんが訪れるお店が「塚田水産」です。店頭には定番商品が約40点、季節限定商品と合わせて50種類以上の練り物やさつま揚げが並びます。年末のかきいれ時には1日1万個売れることもあるそうです。
人気商品は塚田さんが開発した「吉祥寺揚げ」です。チーズやエビ、イカ、ホタテなどの具材を入れたさつま揚げにパン粉をつけて揚げたオリジナルメニューで、食べ歩きも向いており、吉祥寺名物の一つになっています。
塚田水産は1945年、塚田さんの祖父浩三さんが創業し、吉祥寺を代表する老舗の一つになりました。
塚田さんは当時、工場と店舗があった東京都府中市で生まれ育ち、よく仕事場に遊びに行ったそうです。「物心ついたころ、父がいた府中のお店に行ったのをよく覚えています。パートの皆さんもかまってくれ、揚げたても食べて楽しい場所でした」
家業を初めて意識したのは小学生4、5年生のとき。授業で両親の仕事を発表したときに、友達に言われてサラリーマン家庭じゃないと気づいたそうです。
ただ、両親からは家業を継ぐことについて何か言われたことはありません。高校卒業後、しばらくはフリーターとしてカラオケ店やパチンコ店、スーパーなどを転々としました。
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転機は20歳のときでした。子どもができたことをきっかけにフリーターを辞め、吉祥寺の店の横で、父が個人事業として営んでいた鮮魚店を引き継ぐことになります。
「父も両方を経営するのが大変になっていて、鮮魚店を閉じてさつま揚げに専念しようと思っていたタイミングでした。だったら鮮魚店をやれ、と言われたのです」
それから約10年、塚田さんは31歳まで鮮魚店を一人で切り盛りします。未経験ながら魚の仕入れなどを必死で勉強し、ギリギリではあるものの黒字をキープしていたそうです。そんな中、塚田水産で要となる職人が退職することになりました。
「父から人手不足で困っているので、こっち(塚田水産)をやらないかと言われました。鮮魚店も先が見えず、このまま続けても赤字になるような状態でした。弟が高校卒業後、工場に入って大変そうだったので手伝うことにしました」
塚田さんは2004年に鮮魚店を廃業し、正式に塚田水産に入社します。
入社してから3年間はさつま揚げ作りの修業に明け暮れました。先に入社していた弟から一つひとつ教わったそうです。店の経営は創業者の祖父から父に交代していました。
ところが修業が一段落してお店に入ってみると業績が悪化していました。2代目の父から「このままだとダメかもしれない」と告げられたそうです。
「お客様もたくさん来ていて、すごく売れているのにそんなことあるのかなと思いましたが、経営状態を見てみたところ、高コストで無駄な経費が多く、厳しい状態でした」
塚田さんは経営の見直しを始めます。古い付き合いだった仕入れ先を変更するなど、原材料費や資材費、そして無駄な経費を徹底的にカットしていきました。
塚田水産は個人商店だったこともあり、定年退職などの仕組みがありませんでした。そこで60代の従業員に引退していただくかたちで人件費も見直しました。
「先代のときから働いている方に引退していただくのはきつかったのですが、やらなければどうしようもなかった。父に嫌な思いをさせたくなったので、私が前面に出て進めました」
塚田さんによると、先代は情に厚いタイプで「辞めさせるのはかわいそうだ」と言われました。「取引先を変えたい」という提案にも「昔からの付き合いだから」と言われたそうです。しかし「会社を立て直すために必要なことだから」と押し切ったそうです。
「社員みんな忙しく働いていて、さつま揚げも売れているのに会社がつぶれるというのは嫌でした。自分が立て直さなければという気持ちだけで突き進みました」
様々なコストカットによる経営の見直しが功を奏して出血は止まり、塚田水産は少し先を見て頑張れる状態になりました。
赤字の垂れ流しが止まったことで、塚田さんはさつま揚げをつくる工場の改善や効率化、新商品の開発などに率先して取り組みます。
そんな中、13年に東京都立川市の伊勢丹立川店のバイヤーから、武蔵野・多摩を盛り上げるイベントに出てほしい、と声がかかりました。「すごく売れて会社の売り上げ増にもつながりました」。これが百貨店に催事を出すきっかけになりました。
塚田さんは催事の出店を増やすために営業に回りました。催事の売り上げが伸びたことで、塚田水産は黒字に転換し、経営も安定しました。
このころ塚田さんが考えたのが店の名物となる「吉祥寺揚げ」でした。きっかけは、若い人にもさつま揚げを食べてほしいという思いでした。
「さつま揚げを買うのは年配の人ばかりというイメージがあり、どうしたらいいかずっと考えていました。そんな中で気づいたのが、デパ地下でお総菜として売っているエビカツです。あれはすり身なので我々でも作れるなと」
試しにエビ入りのさつま揚げを作ってみたところ、大好評でした。そこで、チーズやカキ、アスパラなど様々な具を用意して、「吉祥寺揚げ」として14年10月ごろから販売を始めました。通りすがりの人が食べ歩きできるよう棒に指したり、食べやすい包装にしたり工夫も重ねました。
販売当初は1日20個ぐらいしか売れませんでした。「まずは食べてもらおうと、土日に(1個)100円セールをしたところ2千個ぐらい売れ、その後は継続して売れるようになりました」
吉祥寺揚げはテレビや新聞などでも取り上げられ、売れ行きは倍々で伸びました。
ただ、塚田さんは「購入する層が違うのか、さつま揚げやおでん種の売り上げ増にはつながっていないのが課題です」と気を引き締めています。
塚田さんは百貨店の催事に力を入れ始めたころから、実質的に経営を仕切っていたそうです。事業承継のきっかけになったのは百貨店とのやり取りでした。
「営業で名刺を渡すと、毎回のように『代表の方ですか』って聞かれて訂正していました。それが面倒で父に代表になりたいと話したところ、『いいんじゃないの、もうほとんどやっているんだし』と言われました」
塚田さんは16年、先代から会社を譲り受け、塚田水産の3代目代表取締役になります。先代は取締役として籍を置き、塚田さんの弟が現在、催事を担当しています。
塚田さん自身、当初は先に入社した弟が社長になるのが筋だと考えていました。しかし、弟は先代と同じく情に厚いタイプで、アイデアマンで率先して動く塚田さんのほうが経営に向いているという共通認識になったそうです。
さらに塚田さんは、社長就任前から経営の多角化もスタートしました。15年にはもともと鮮魚店だった(吉祥寺の名物商店街)ハモニカ横丁の店舗スペースでおでんの立ち飲み店を開業。その後、焼き肉の立ち食いのお店やラーメン店なども手がけました(ラーメン店は後に売却)。
現在、おでんの立ち飲み店は塚田水産の店舗に場所を移し、午後7時にオープンする「二毛作」スタイルとなりました。
塚田水産の経営は順調に進んでいましたが、20年4月のコロナ禍による緊急事態宣言で、再びピンチに陥ります。
「4、5月は商店街の人の流れが止まり、売り上げはほぼ半分になりました。飲食事業は休業で、催事も全てなくなりました。ダメージは本当に大きく、これが続いたらつぶれるのかなと思いました。しかも、おでん種があまり売れない6~8月を前にした時期の緊急事態宣言だったので、精神的にも参りました」
赤字が続く中で行ったのが、SNSによる集客や店頭に置く黒板による顧客とのコミュニケーションでした。黒板の文言は毎日パートさんが書き、宣伝・集客になりすぎないよう時事ネタや小ネタなどを交えながら、すでに700日以上続いているそうです。
さらに21年10月に迎えた塚田水産の75周年もお店を盛り上げるチャンスと考えました。社員たちとアイデアを出し合い、記念イベントとして75円セールや揚げボールのつかみ取りなどを企画しました。
「75周年イベントのアイデアや毎日の黒板、SNS発信などは若い社員やパート従業員と相談する中で決まりました」
また他の人気食材を使った商品展開にも積極的です。「岩下の新生姜」を混ぜたさつま揚げを開発。さらに同じ吉祥寺にあるハム・ソーセージの有名店「ケーニッヒ」に声をかけ、あらびきソーセージを入れてコラボした吉祥寺揚げなども開発し、コロナ禍のピンチを乗り越えました。
現在、塚田水産の売り上げは約3億5千万円ほどで、社員とパート従業員を合わせて約45人のスタッフを抱えています。
コロナによるピンチは乗り越えましたが、円安や原材料費の高騰という新たな課題を抱えています。さつま揚げの原材料となるすり身の価格は、20年前と比べて3倍近くになったそうです。
「22年4月に少し値上げはしましたが、この先どうしようか考えています。単純な値上げができないので、地元野菜を使ったさつま揚げなど付加価値があるものを作って買っていただく、ということを考えています」
逆風の中でも、22年3月には伊勢丹新宿店から声がかかり、フレッシュマーケットに常設店を出すという明るい話もありました。これまで積み重ねてきた百貨店の催事出店が実を結んだのです。
店は大手かまぼこメーカー・紀文食品の後に入ったので、今は来店客から「紀文じゃないならいいわ」と言われることもあるといいます。塚田さんは「まずは食べてもらって、結果を出していかなければと考えています」 。
塚田水産は赤字から立て直し、日本を代表する百貨店に出店するまでに至りました。「ただがむしゃらにやってきただけ」と語る塚田さんの次の目標は100周年にたどり着くことです。
「最低23年、会社を元気な状態で経営していかなければ、と思っています。現在6歳の息子が100周年のときには30歳くらいになります。継げと強く言うつもりはありませんが、そのときに継ぐことを選べる状態にしておきたいと思っています」
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