「若さ」を武器に醸した新銘柄 石井酒造8代目が広げる日本酒の価値
埼玉県幸手市で180年以上続く石井酒造8代目の石井誠さん(35)は、早稲田大学を出て、父の体調悪化のために26歳で社長に就任しました。20代の若者だけで醸造した「二才の醸」で話題を呼んだり、大手電機メーカーのシャープと零下で味わう酒を造ったりするなど、日本酒離れに立ち向かう挑戦を続けています。
埼玉県幸手市で180年以上続く石井酒造8代目の石井誠さん(35)は、早稲田大学を出て、父の体調悪化のために26歳で社長に就任しました。20代の若者だけで醸造した「二才の醸」で話題を呼んだり、大手電機メーカーのシャープと零下で味わう酒を造ったりするなど、日本酒離れに立ち向かう挑戦を続けています。
――石井さんは子どものころから酒蔵を継ぐと思っていましたか。
幼少期から酒蔵を継ぐつもりでした。先代の父からは「継げ」と言われたことは一度もなかったですが、当たり前のように8代目として育てられました。
とはいえ私の学生時代も、日本酒の需要はジリ貧でした。先代は私がやりたいと言わなかったらやめていたかもしれません。
酒蔵を継ぐために農業大学の醸造学科に進もうと考え、高校受験のタイミングで先代と相談しました。ところが「広い見分を持った仲間のところで、グローバルな視野を持つ必要がある」と勧められ、早稲田本庄高校から早稲田大学に進み、経営やマーケティングを学べる商学部を選びました。
デジタル化が大きな課題と感じていたため、根来龍之教授のゼミで「ITと経営戦略」を学びました。
ゼミに入ってよかったのは、当時ほとんどの酒蔵が持っていなかったホームページをつくれたことです。何よりITに限らずトレンドにアンテナを張っている仲間と知り合えたことが、今も大きな財産になっています。
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2010年、お酒のことをしっかり学ぶため、卒業までの猶予期間を使って醸造試験所で3カ月間酒造りの基礎を学びました。当時、東京・赤羽にあった小山酒造で製造も体験しました。
――大学卒業後はどのような経験を積みましたか。
11年の大学卒業後はガス会社に就職しました。父から「一度は社会人経験を積んで、1円を稼ぐ大変さを学んでこい」とアドバイスされたからです。
今思うと、仕事の進め方や受発注の仕方、社内のコミュニケーションなど同業にいなかったから分かったことばかりでした。
しかし、13年に父の体調に不安が出て、急きょ社長業を引き継ぐことになりました。当時業界としては異例の26歳での就任でした。
――蔵に戻って感じた課題は何でしょうか。
「良くも悪くもレガシー」ということです。業界全体にも言えることですが、メリットが多いことでも、長く続けていた慣習があるため変化を嫌います。
何よりすべてがアナログでした。通信手段一つとっても電話とファクスの世界。メールのやりとりもなく、エクセルなどのツールも使わず、表計算や在庫の集計も全て手書きでした。
――いきなりの社長業で大変だったことは。
非効率が明白でも習慣で染みついていて、逆にやり方を変える方が非効率という状況でした。ルーティンで回せているので、新たなやり方を会得する必要がないと考えている人が多かったのです。
20年以上仕事をやっている人に対して真っ向から否定できず、若さもあって強く言えませんでした。
もちろん変える努力もしましたが、キャリアを積んで社長になったわけではないのが弱みだと痛感しました。
業績が良くなかったこともあり、マイナスからのスタートです。今後も市場が同じように推移することを考えると、新しいことを始めなければという危機感がありました。
――石井さんは20代の若者だけで造る銘柄「二才の醸」を造り出しました。どのような発想で生まれたのでしょうか。
埼玉は新潟のような「米」という強みも無く、我々には技術も足りません。
突き詰めると石井酒造には「若さ」しかありませんでした。そこで「若さ」を強みとして振り切ったプロジェクトを発案しました。
「二才の醸」は、そのようにして立ち上げたプロジェクトです。「青二才」からあえて「青」を外すことで、若者でも堂々と酒造りに挑戦していく、という姿勢を示しています。
プロジェクト開始時点では社内からは9割以上から懐疑的な目で見られ、先代からも強く反対されました。ですが、半ば強引に押し切りました。当時、社内には20代だった和久田健吾杜氏がいたことも、推進力につながったと思います。
消極的に製造すると機械的に作業をしてしまい、想いが乗りきらないことが起きがちですが、プロダクトを生むという喜びを享受して「ものづくりをする」という愉悦を感じられました。
従来の慣習や方法にとらわれず、自由な発想で取り組んだことで、よりモダンで若者受けする酒に仕上がったと自負しております。
日本酒業界は親方に言われて愚直に酒造りに取り組み、(若者は)酒質の設計に関われないことがほとんどです。私自身、蔵に戻ってから酒を造っているという実感がほとんどありませんでした。
自社のお酒を造っている実感を得たい。そんな気持ちが形となって表れたのが「二才の醸」です。販売には当時、日本酒業界では異例のクラウドファンディング(CF)を活用しました。
20代だけで酒造りをする――。原料や品質以外の商品価値にもフォーカスしたことで、「二才の醸」は色々なメディアに取り上げられ、社内外の見方が大きく変わりました。それは今も行動の基盤になっています。
――看板になった「二才の醸」を他の蔵に引き継ぐという、前代未聞の決断をしています。
30歳になるタイミングで「二才の醸」は続けていけないと思っていました。
若手が活躍する場を提供することはとても大事だと思います。自分が感じたものづくりへの喜びを、20代が酒造りをしている他の蔵に広げたいと強く思いました。
そこで似たような酒蔵を探し、宝山酒造(新潟県)に引き継ぎました。
「二才の醸」は22年現在、3代目の青木酒造(茨城県)、4代目の天領盃酒造(新潟県)へと引き継がれています。
代々銘柄を引き継ぐことで、10年後、20年後も下の世代と交流ができる。それだけで意義があることだと思っています。
「二才の醸」は「20代だけで醸す」という条件以外は全て自由で、必ずしも日本酒である必要もありません。
――17年には、シャープとコラボした「冬単衣」を開発しました。
様々なエンターテインメントがあるなか、可処分時間をいかに日本酒にあててもらうかを考え、「日本酒を飲むという体験を売らなければいけない」ということに気付きました。
そんな時に付き合いがあった応援購入サイトのマクアケ(Makuake)から、シャープを紹介されました。シャープは「温度を一定に保つという特性を持った材料技術」をどう使えばよいか困っていたそうです。
打ち合わせを重ねた結果、「新しい日本酒のジャンル」と「蓄冷材料による日本酒専用バッグ」を開発し製品化しようと話が進み、「マイナス2度の日本酒」というプロジェクトが始まりました。
シャープが開発した専用の保冷バッグで包むことで、日本酒を零下でキープできるというものです。
液晶技術から生まれた蓄冷材料を保冷バッグに応用。マイナス2度でまるで雪がとけるかのように、口の中でキリッとした冷たさから徐々に香りや甘みが花開いていきます。この商品は「冬単衣(ふゆひとえ)」と名付けました。
CFでは1600万円を記録し、大きな注目を集めました。「二才の醸」と「冬単衣」でお酒のファンになってもらい、石井酒造の日本酒に触れてもらえるきっかけが広がったのです。
――コロナ禍で見えた経営課題は何でしょうか。
コロナ禍で感じたのは、業務用の日本酒が抱えるボリュームの多さでした。当社の商品は居酒屋で飲まれることが圧倒的に多く、アルコール類の提供自粛で売り上げが激減しました。
特に危機感を感じたのは、飲酒量に加えて「飲酒時間」そのものが減ったことです。私自身、家で飲む時間は30分程度。居酒屋では2時間ずっと飲んでいたことを考えると、飲酒時間が圧倒的に減りました。
コロナ禍で自社ができることを考えるようになり、「体験を売っていくしかない」という原点回帰に至りました。
蔵の売り上げはフードロスに下支えされていたという事実にも気づかされました。
宴会では人数分のお酒が用意され、残ったものは廃棄されます。その廃棄されたものも含めて売り上げです。
米ができてから酒に変わるまでものすごい労力がかかっているのに、その苦労が全く感じられていないという事に気づきました。
そこで酒づくりを体感し、その酒を味わってもらう行為がバリューになるのではないかと思いました。自分自身が「二才の醸」で感じた発酵のすばらしさ、モノを作る尊さを伝えきれるのではないかと。
上から目線に思われるかもしれませんが「もっと、日本酒をありがたく飲んでもらえるようにしなくては」と考えるようになりました。
――具体的に進めた取り組みは。
石井酒造は新潟県、秋田県のような酒どころというバリューは無く、観光などの付加価値もありません。
しかし、東京へのアクセスの近さは強みです。酒造りに挑戦したい人を簡単に招くことができ、通いで酒造りができます。
そこで、体験しながらオーダーメイドで酒造りができる企画をスタートしました。トライアルで募集したところ3件が集まり大好評でした。来季はすでに6件の予約が入っています。
不思議なことに、当社が通常造っている日本酒と飲み比べると全員「自分が作ったものがおいしい」と話していました。ミシュランの料理より自分で作ったお弁当の方がおいしく感じてしまう感覚に近いのかもしれません。
今の日本酒の質はかなり高く、その中でうちの酒を選んでもらえるように差別化しないといけません。「手間をかけた酒がおいしい」と思ってもらえるように価値を作る必要があると思っています。
――アフターコロナへの展望や、今後目指している酒蔵の姿は何でしょうか。
居酒屋で酒を飲むという慣習を戻すのは、なかなか難しいでしょう。別の手段で日々の生活に溶け込み、消費してもらえるように工夫しなければいけません。
その一つとして健康需要があると思います。コロナ禍を機に健康への関心から、発酵食品の需要が高まっています。そこで、こうじを使った甘酒を開発したいと考えております。
甘酒は先駆者がひしめいていますが、今までにないターゲットを狙った商品を老若男女に届ける構想を持っています。
これまではお酒だけを造る酒造会社でしたが、これからは発酵食品をトータルで届ける「醸造会社」という立ち位置にシフトしなければいけないと考えています。
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