売り上げ急減からの再起 新原製茶4代目が活路を開いた日本茶専門店
すすむ屋茶店(鹿児島)は新原製茶4代目の新原光太郎さん(39)が2012年に創業した、鹿児島茶をメインに据えた日本茶専門店です。16年にはおひざ元の鹿児島に続いて東京・自由が丘にも出店。突然の代替わりで売り上げが急減した家業を鼻と舌を磨いて再起させた4代目は、日本茶のあらたな可能性に挑むべく、東奔西走しています。
すすむ屋茶店(鹿児島)は新原製茶4代目の新原光太郎さん(39)が2012年に創業した、鹿児島茶をメインに据えた日本茶専門店です。16年にはおひざ元の鹿児島に続いて東京・自由が丘にも出店。突然の代替わりで売り上げが急減した家業を鼻と舌を磨いて再起させた4代目は、日本茶のあらたな可能性に挑むべく、東奔西走しています。
草の茂みから立ち上る熱気のことを草いきれと言いますが、すすむ屋茶店一番人気の「こくまろ」は言うなれば草いきれならぬ茶いきれを感じさせるお茶でした。
湯飲みに顔を近づけると、マスク越しにもかかわらず甘い香りが鼻腔をくすぐり、ひと口すすれば口腔が茶のうまみでいっぱいに。想像をはるかに超えてコクがあってまろやかで、心地よい余韻はいつまでも残りました。
静岡、宇治、狭山。お茶どころと聞いて思い浮かべるのはこの三つの地域でしょう。ところが栽培面積でみれば、静岡に次ぐ日本第2位のエリアは鹿児島です。
「鹿児島茶は三大銘茶にブレンドされてしまうお茶でした。ブランド力が弱かったからです。しかしそれは知られていないだけで、優れた茶葉はいくらでもありました。鹿児島茶を広めるにはこれまでにない挑戦が必要です。ぼくは品種を打ち出すことにしました」
糸口になったのは、コーヒーの世界。その世界ではシングルオリジン、すなわち農園や生産者にスポットを当てたサードウェーブが主流になりつつありました。
「お茶は産地でくくるのが倣いですが、二番煎じでは追いつけません。それに鹿児島の茶葉はどれも個性豊かですから、産地で十把一絡げにするのはなんとももったいないと思いました。品種単位で売り始めたのは(日本三大銘茶を含めても)まれな試みでした」
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すすむ屋茶店は「さえみどり」「あさつゆ」「ゆたかみどり」といった鹿児島の品種茶を豊富にそろえます。試飲させてもらった「こくまろ」は「さえみどり」と「ゆたかみどり」を掛け合わせたオリジナルです。
鹿児島茶のポテンシャルを最大限引き出す――。これを目標に新原さんは試行錯誤を重ねて独自の製法も編み出しました。それが2段仕分けと浅煎り焙煎です。
茶葉は摘み取って乾燥させる1次加工(荒茶)、葉や茎を選別する2次加工を経て完成します。すすむ屋茶店は葉の大きさをそろえるというひと手間を2次加工に加えています。このひと手間が新原さんの言う2段仕分けです。限りなく個体差をなくすことで後工程の焙煎が均一に仕上がります。
深煎りは仕上がりこそ安定しますが、茶葉本来の味わいを犠牲にします。浅煎りとすることでみずみずしさが保たれるのです。もちろん浅く均一に煎るためには繊細で根気のいる作業が求められます。
茶葉の分量は一杯あたり8グラム。お茶に親しんでいる人ならぜいたくな使い方だなと感じるかも知れませんが、さほど多いわけではありません。
「8グラムは1杯180㏄から逆算した分量です(通常は3グラムで90㏄)。茶の間や応接室ではなく、仕事の合間や友人、恋人との語らいのお供に。これまでコーヒーが担っていたシーンでお茶を飲んでもらおうと思いました」
茶器もいちからつくりました。180㏄が入る湯飲みのほか、急須や茶筒、茶匙をラインアップしていますが、どれも使い勝手がよく、飽きの来ないたたずまい。「世界観が共有できるつくり手とともに妥協なくつくり込みました」と新原さんは胸を張ります。
「言ってみればすべては素人だからたどり着けたものです。素人だから、常識を疑ってかかることができたのです」
「お茶はなにが好きだと聞かれれば『伊右衛門』がおいしいと屈託なく答えていましたし、彼女と同棲していたアパートには急須ひとつありませんでしたから、こんなぼくが後継ぎになるなんてと、ひとごとのように驚きました」
都会での生活に憧れて福岡の大学に進学した新原さんは大学生活を謳歌しました。05年に卒業すると、アルバイト先のユナイテッドアローズにそのまま就職、すっかり慣れ親しんだ福岡のお店で接客に当たっていました。
「入社してそうそう、店の先輩がバイヤーに昇格、ニューヨークへバイイング(買いつけ)にいくことが決まりました。服屋をやるからにはいつかはバイヤーになりたいと思っていました。この好機を逃してなるものかと貯金をはたいて航空券を手に入れ、ぼくも連れていってほしいと頼みました」
前のめりな後輩は二つ返事で同行を認められます。はじめての海外出張に胸を高鳴らせる新原さんに、一本の電話が冷や水を浴びせかけました。
「忘れもしない2月14日。彼女からもらったチョコレートを食べているときに実家から電話がかかってきました。父がくも膜下出血で倒れたという知らせでした」
新原さんはとるものもとりあえず帰郷しますが、付き添った1週間、父は意識を取り戻すことはありませんでした。このまま二度と会えないかも知れない。けれど、せっかくつかんだチャンスを逃したくない――意識の戻らない父を置いて、新原さんはニューヨークへ発ちました。
結論から言ってしまえば、新原さんはこの出張で家業入りを決意します。
バイイングについてまわった毎日はとても刺激的なものでした。のちに大化けする新進気鋭のデザイナーとハグしたのは忘れられない思い出です。
「(最先端のファッションシーンが)刺激的だったのは間違いありませんが、それ以上にぼくの心をとらえて離さなかったのは早朝の街と行き交う人々、そして彼らが我先にと立ち寄るカフェでした。日常に溶け込むありようにしびれたのです」
時差ボケで毎日のように4時きっかりに目が覚めた新原さんは起きるなり街に出て、時にみずからも客のひとりとなってカフェでの時間を楽しみました。
そうして決意します。ニューヨークのカフェのように、ローカルに根づいた日本茶文化をつくろう――と。
「大正時代にまでさかのぼれる新原製茶は祖父が大きくしました。業界の要職も務めた祖父は“鹿児島茶の父”と呼ばれたそうです。その血を引く人間として、看板を下ろすのはしのびなかったけれど、祖父や父が整備してくれたレールに乗るだけの人生はいやだった。やるからにはレールは自分で敷いてみたかったんです。ニューヨークはそんなぼくの背中を押してくれました」
3月の頭に帰国した新原さんは辞表を提出し、あわただしく実家へ帰りました。お茶の仕入れの最盛期は4月。すでに一刻の猶予もなかったのです。
茶師の鼻を買う、と言います。築地の仲買人のようなもので、その人の鼻が信用の証しなのです。それは最盛期に25億円を売り上げた新原製茶も例外ではありません。仕入れはすべて父の専有事項でした。父がまだ病床に伏せっていた折、この重責を担うのは後継候補の新原さんを置いてほかにいません。
銀行は事態を重くみました。「まるで半沢直樹のようだった」と笑う担当とのやりとりになんとか決着をつけると、返す刀で市場に切り込みました。
「右も左もわからない若造です。市場にずらりと並んだ茶葉はどれも同じにみえました。ぼくはとにかく試飲することにしました。入札が始まる7時30分よりずっと早く市場に入って。市場にはおよそ1200の茶葉が並びますが、ぼくがこの時期に試飲した数は1日500はくだらないと思います」
これを繰り返すうちに、おぼろげながら見分け方がわかってきた新原さんに強力な助っ人があらわれます。それは父の鼻を買っていたなじみ客でした。
「彼らは忘れたふりをして、買いつけた茶葉のサンプルを(ぼくのために)残しておいてくれるんです。これで味を覚えたらええ、ということです。ぼくはこのサンプルをひとつかみ拝借して、次の日の仕入れに臨むようになりました。仕入れの精度は一気に高まりました」
やみくもに突っ走って3年。新原さんは27歳の年、2010年に全国茶審査技術競技大会で 6位に入賞しました。100人を超えるベテランがいるなかでの最年少受賞でした。
新原さんから買いたいという客は着実に増えていきました。飲料市場の多様化、ならびに突然の代替わりで最盛期の3分の1以下にまで落ち込んでいた売り上げは徐々に盛り返し、2桁の大台も視野に入りました。
「何百万、何千万と損切りもしました。けれどひるむことはありませんでしたね。新原製茶は父が倒れた時点でなくなってしまったかもしれなかったんです。失うものはなにもないという気持ちでがんばりました」
家業の再建にめどをつけた新原さんは満を持してすすむ屋茶店を創業。12年におひざ元の鹿児島に1号店、16年に東京・自由が丘に2号店、22年には鹿児島の複合施設・センテラス天文館に3号店をオープンしました。
自由が丘に構えた東京の拠点は、文字どおり街と一体化していました。
打ちっ放しのコンクリなど、素材の一つひとつはモダンですが、けれんみは感じさせません。お茶をほうふつとさせるキーカラーのグリーンは明るくもなく、暗くもない、絶妙なタッチです。そういう繊細な気配りが居心地のいい、それでいてほんの少し晴れがましい気持ちになれる空間をつくりだしています。
「(ファッション業界には)振り返られる装いは紳士としてふさわしくない、というのがあります。がんばったおしゃれは若い時分ならともかく、大人なら恥ずかしいものです。ローカルに根づかせようと思えば、振り返られるようながんばった店づくりは慎むべきでしょう」
オープンカウンターのその店は、スタッフがお茶を入れているところがよくみえます。ファンづくりの一環として採り入れたオープンカウンターには、スタッフがカウンターというステージで輝けるように――との思いも込められています。
新原さんは彼らをクルーと呼びます。彼らはともにお茶の世界を切り開いていく仲間だから、というのがその理由です。
「店もお茶も、お茶を入れるクルーもその魅力が伝わるものを。常にこのことを意識しながらアイデアを転がしていると、デザインはどんどんシンプルになっていきました」
鹿児島茶の個性を浮かび上がらせた品種茶の数々、コーヒーの代わりになりうるドリンクスタイル、そして止まり木のような店。新原さんは見事に“一番煎じ”の喫茶文化を築き上げました。
すすむ屋茶店の売り上げは右肩上がりで伸びており、今年も堅調に推移しています。売り上げを支えているのは6割を超えるというリピーターです。街に張った根は、はやくも太く育っています。
近ごろは対外活動も盛んです。スポーツメーカー大手のデサントと組んでスポーツシーンで飲むお茶を開発したり、古巣のユナイテッドアローズとともにポップアップなどのイベントを行ったりしています。
その名が全国区になった新原さんのもとにはさまざまな仕事が舞い込むようになりました。
すすむ屋茶店を軌道に乗せた新原さんは、鹿児島茶はもとより、祖父や父が心血注いだ新原製茶そのもののイメージをも向上させました。
しかし、まだスタート地点に立ったばかりと言います。
通勤、通学途中の老若男女が入れ代わり立ち代わり店を訪れる。しかも全国のあちこちに構えたすすむ屋茶店で――新原さんの目にはそんな景色がみえています。
「屋号に冠した“すすむ”は祖父が好きだった言葉からとりました。それは“積極前進”というものです。ぼくもみずから動いてすすむ屋茶店を全国区にしたいと思っています」
病気を克服した父のためにも、同棲時代から良き理解者だった妻のためにも、新原さんの挑戦は続きます。
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