土俵際のエボナイト工場が万年筆で再生 4代目が広げたネットワーク
特殊な硬質ゴムを製造している日興エボナイト製造所(東京都荒川区)はリーマン・ショックの直撃で土俵際まで追い詰められました。この危機を鮮やかにうっちゃったのが4代目の遠藤智久さん(51)です。2009年に立ち上げた万年筆ブランド・笑暮屋(えぼや)が愛好家に評価され、起死回生の「決まり手」となりました。中小企業経営者との勉強会も主宰し、商品の共同開発も進めています。
特殊な硬質ゴムを製造している日興エボナイト製造所(東京都荒川区)はリーマン・ショックの直撃で土俵際まで追い詰められました。この危機を鮮やかにうっちゃったのが4代目の遠藤智久さん(51)です。2009年に立ち上げた万年筆ブランド・笑暮屋(えぼや)が愛好家に評価され、起死回生の「決まり手」となりました。中小企業経営者との勉強会も主宰し、商品の共同開発も進めています。
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東京最後のチンチン電車、都電荒川線の起点となる三ノ輪。町工場と住宅のあいだを縫うように道がうねる、ざっかけない街並みが広がります。日興エボナイト製造所はそんな街の一角にひっそりとたたずんでいました。
急な階段を上がって事務所の戸を開ければ、昭和の時代から時をとめてしまったかのような空間があらわれました。
簡素で雑多な応接スペースで従業員とのにぎやかなやりとりを聞くともなしに聞いていると、ほどなく名刺交換の運びに。顔写真入りの情報量の多い名刺もさることながら、目を奪われたのはパンパンに膨らんだ革製の名刺入れでした。おそらく、100枚は入っているんじゃないでしょうか。
こちらの視線に気づいた遠藤さんは「名刺を使う機会と言えば、むかしは取引先の担当が変わるときくらいだったんですけれどね」と笑いました。
遠藤さんは大学を卒業すると一部上場の企業に就職しました。当時、家業のことはまったく頭になかったそうです。
「右肩下がりの商売だし、親族で経営する会社は窮屈だろうから継がなくていいと両親も言っていました」
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日興エボナイト製造所は遠藤さんの祖父勝造さんが1952年に創業した会社です。関東大震災の翌年、1924年に北海道から上京した勝造さんは南千住のエボナイト工場に就職しました。いわゆる集団就職の先駆けでした。
社名にも冠したエボナイトはゴム産業の父と言われるチャールズ・グッドイヤーが発明した硬質ゴムのこと。黒檀(ebony)に似ていることからその名がつきました。
電気絶縁性や機械加工性に優れ、生活のあらゆる場面で利用されてきましたが、プラスチックの登場でその市場は急速にしぼんでいきます。現在、エボナイトをつくるメーカーは日本では日興エボナイト製造所1社。世界を見渡してもドイツなどに数社あるばかりとなっています。
状況が一変したのは社会人になって3〜4年が経ったころでした。社長を務めていた父昌吾さんの兄が病に倒れたのです。
「父が社長にならざるを得なくなったんですが、おもに現場をみていた父に経営のことはわかりません。それに小さな会社ですからひとり欠けるだけでもたいへんです。そんなこんなで呼び戻されたというわけです」
遠藤さんはほとんど迷うことなく辞表を提出しました。1998年のことです。
「親が困っているんです。わたしが助けになるのであれば、というただその気持ちだけでした」
遠藤さんが戻って10年。売り上げは下降線を描き続けました。
「家業入りして3年目はとくにつらい1年でした。うちはエボナイトのほかにフロート(車の燃料タンクなどの残量を量る機器)とキャスター用の車輪をつくっていました。いずれもエボナイトを原料とするプロダクトです。そのひとつであるフロートの大口のクライアントから取引の停止を通告されたのです」
このままでは看板を下ろすことになってしまう――。尻に火がついた遠藤さんはまた別の得意先へ直談判にいきます。
「もっと注文をくれませんかと頭を下げたところ、なんの努力もしないで虫がよすぎませんかとたしなめられました。そのときはぶぜんとしたけれど、冷静になって考えてみればもっともなことでした。わたしどものものづくりは十年一日のごとく成長がなかったのです」
キャスターのほうの商売もプラスチックに取って代わられていくのを指をくわえてみているしかなかったという遠藤さん。とどめを刺すようにリーマン・ショックが襲いかかります。年商は最盛期の3分の1に。従業員も家族をのぞけば2人になりました。
すがるような思いで参加したのが荒川区が主催するセミナーです。
「そのころは工場が稼働しない日もありました。暇だし無料だからと父を誘って参加したのがあらかわ経営塾でした。そこで言われたんです。『工場に金は落ちていませんよ』と」
遠藤さんはこのセミナーをきっかけに、ふたつの道を切り開きます。ひとつはオリジナルブランドの開発、そしてもうひとつはネットワークづくりです。
「セミナーでは脱素材屋を目指しなさいとアドバイスされました。これまでに培ったリソースを使えば面白いことができるはずだ、と」
ステッキ、ハンコ、ハーモニカ…。エボナイトの特性が生かせるプロダクトの試作を繰り返すなかで掘り当てた金脈が万年筆でした。
「万年筆の加工業者に相談されていたんです。マーブル模様のエボナイトをつくれませんかって。聞けばその昔はあったそうなんですね。面白いとは思ったけれど、売る当てのないものをつくったところで会社の利益にはなりません。現金な話ですが、これでオリジナルをつくればいいんだとひらめいた途端、素材開発は一気に進みました」
カラーマーブルエボナイトと名づけたエボナイト素材の万年筆、笑暮屋が完成したのは09年のこと。加工業者のオファーからじつに3年の月日が経っていました。
「祖父も父も手がけたことのないエボナイトだったので、レシピから考案しなければなりませんでした。エボナイトは黒みがかっていますから、色を入れるのは常識で考えれば不可能です。ここは企業秘密なので割愛させていただきますが、レシピができたからといってそれで終わりではありません。美しいマーブル模様を描こうと思えばまさに職人の技と勘が求められます。量産する以上、再現性も求められます。この工程に関しては、わたしを含めて、今なお限られた人間のみでまわしています」
地元の展示会に並べたところ、1本6万円前後するにもかかわらず5本が売れました。手応えを感じた遠藤さんはその年の8月にECサイトをオープンし、11月には仲間とともに合同展を開催しました。これが日本橋三越本店の目に留まり、2年後のポップアップストアにこぎつけます。笑暮屋は大いに注目されました。
現在は丸善日本橋店やNAGASAWA 梅田茶屋町店の万年筆フェア、神戸ペンショーといった愛好家が集うフェアでお披露目しています。繁忙期の秋から冬にかけては月に1回はイベントに参加している計算になるので、なかなかのペースと言えるでしょう。
「エボナイトは日本ではうちでしかつくれないマテリアルです。それだけで十分インパクトがありますが、単なるノスタルジーではなく、ものとしても優れている。エボナイトのボディーは吸いつくように手になじみ、磨けば滴るようなツヤがあらわれます。ペン先も1本1本丁寧に調整していますから、書き味も申し分がありません」
遠藤さんは一気呵成に海外進出にも乗り出します。三越のフェアで成功を収めた11年、世界最大級とうたわれる中国ネット販売大手・アリババに登録しました。セミナーで名刺交換した参加者がアリババの人間だったのです。
登録初年度は年間30万円程度の売り上げでサービスの使用料にも満たなかったというこのビジネスも、いまや会社の柱に成長しました。古き良きエボナイトを待ち望んでいたカスタマーは、海外にもいたのです。
「売り上げはエボナイトが5割、オリジナルが3割、そのほかが2割で、エボナイトもオリジナルも3〜4割は海外が占めます。おおよそ思い描いたとおりの未来を手に入れましたが、少々好調すぎる。残業が必要な状況になってしまったんです」
日興エボナイト製造所は最盛期の売り上げに戻しました。パートを含めれば従業員も15人に増えました。
遠藤さんが家業に負けず劣らず力を入れてきたのが「あすめし会」と名づけた中小企業経営者の勉強会です。
「あすめし会は区の産業活性化プロジェクトの一環として08年に発足しました。文字どおり明日の飯の種をつくる会です。月1回のオープンセミナー、ビジネスフェアへの出展、そしてワインクルーズなどの親睦を深めるイベント……。我ながら盛りだくさんの勉強会です」
中小企業の経営者にとって体系的に学ぶことのできる機会は貴重です。しかしそれ以上に意義深いのは有機的なネットワークがつくれるところにあります。遠藤さんは「向こう三軒両隣でしょうゆの貸し借りができる関係を築きたい」と言います。
メンバーは遠藤さん含めて20人ほど。ともに商品開発を行う動きも出ています。遠藤さんもメンバーの音響機器メーカーとインシュレーター(防振材)をつくりました。原料はもちろんエボナイトです。
これが実のある会であることは、他区を巻き込んでいることからも明らかです。あすめし会が台風の目となったイベントの名は、下町サミット。各区が持ち回りでゲストトークやパネルディスカッション、交流会を取り仕切ります。参加者は毎回100人超。13年に始まったこのイベントはすでに19回を数えます。つまり、あと4区で23区制覇となります。
あすめし会の会長を長らく務めてきたのが遠藤さんでした。熱心にセミナーに通う姿を認めた講師が推したとのことですが、講師は遠藤さんの資質を見抜いていたと言わざるを得ません。ほとんど手弁当の会にもかかわらず、10年にわたって運営することができたのはメンバーを引っ張る力をそなえていたからでしょう。
「考えてみれば、母親がそういうひとでした。街の世話役のような存在。みなから頼りにされていました。その血を継いでいるのかも知れませんね」
この性分は東京インターナショナルペンショーというグローバルなビジネスフェアにも結実します。
「海外の売り上げはアリババともうひとつ、ビジネスフェアでつくっています。海の向こうのフェアに出展するようになって気づいたんです。なんで日本には(この手のフェアが)ないんだろうって。思ったが吉日、会場を押さえて18年に立ち上げたのが、東京インターナショナルペンショーでした。5回目を迎える今年は99社が出展し、1800人を超える来場がありました。みな、お披露目の場を求めていたんです」
革が悲鳴をあげる名刺入れは、そんな遠藤さんの勲章です。
「祖父は自分の目が黒いうちに承継の道をつけたかったようです。わたしは38歳の年、10年に社長に就任しました」
タイムリーなことに、翌年の3月に三越のフェアが行われました。
「祖父は叔母に付き添われてみにきてくれました。終始、にこにこ笑っていました。帰りにはレストラン街でうな重をぺろりと平らげました」
祖父はその年の11月、104歳の大往生を遂げました。
「わたしが小学生のころからエボナイトの工場は日本で一軒。単純に気分が良かった。いまあらためて見直されているようにマテリアルとしてのポテンシャルも高い。後を継ぐことができて、誇りに思っています」
遠藤さんも50歳の大台に乗ったいま、次の担い手を育てなければなりません。長男は来年から社会人になります。一度は外に出ることになりましたが、遠藤さんは諦めていません。面と向かって話すことはないものの、ことあるごとにこの仕事のやりがいをほのめかしているそうです。
「朝の8時になるとさりげなくNHKにチャンネルを合わせます。ほら、いまやっているドラマ(連続テレビ小説『舞いあがれ!』)の舞台が大阪の町工場ですから」
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