「苦悩の1年半」を乗り越えて 糸伍4代目は伝統工芸をスポーツ靴紐に
三重県伊賀市の糸伍(いとご)は、伝統工芸品「伊賀組紐」の機械織メーカーとして約70年、製造を続けてきました。主力商品の帯締めなど和装小物の需要が減るなか、4代目社長の松田智行さん(47)は組紐の技術を生かして新商品開発に挑み、苦闘を重ねながらも丈夫でほどけにくい「組紐の靴紐」を開発。プロスポーツ選手からも愛用されるようになりました。
三重県伊賀市の糸伍(いとご)は、伝統工芸品「伊賀組紐」の機械織メーカーとして約70年、製造を続けてきました。主力商品の帯締めなど和装小物の需要が減るなか、4代目社長の松田智行さん(47)は組紐の技術を生かして新商品開発に挑み、苦闘を重ねながらも丈夫でほどけにくい「組紐の靴紐」を開発。プロスポーツ選手からも愛用されるようになりました。
糸伍は、松田さんの祖父が1952年に始めた松田製紐(せいちゅう)が前身です。54年に同じ志を持つ5人で「糸伍商店」として創業。昭和時代に建てた工場に今も50台の機械を備え、染色から組み上げまで一貫して手がけます。現在従業員は12人で年商1億円のメーカーです。
創業時、伊賀組紐の主流は「手組み」でしたが、松田さんは「生産性向上と商品の均一化を目指し機械織の組紐製造の会社を始めたと聞いています」。
親戚らとの共同経営だったため、松田さんは後継ぎという認識が薄く、大学卒業後は三重県内の大手家電メーカーへ就職しました。29歳まで商品開発などをしていましたが、結婚を機に伊賀へ戻り、糸伍に入社します。
「大学も前職も理系でした。だから家業でも何とかなると気楽に思っていましたが、全く違って覚えることが多く大変でした」
製造や営業に従事した松田さんは入社7年目、38歳で4代目社長に就任しました。「当時は和装離れによる売り上げの減少、機械の老朽化、職人の高齢化など課題は山積みでした。テコ入れが必要でしたが、父は独立して手組み紐店を別に経営しており、会長の祖父が私を後継ぎに決めました。それまで経営面はノータッチでゼロからのスタートでした」
糸伍の主力商品は帯締めをはじめとした和装小物です。コロナ禍前は多いときで年間9万本もの帯締めを作り、問屋を通じて全国の百貨店や呉服店で販売されていました。
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伊賀市内にある専用の染色工場で絹糸を染色し、乾燥させた後、自社工場の機械で組み上げています。木造の工場内には、糸を巻き取る機械や、単色織りに使う「製紐機」、複雑な模様を組む「トーション」、機織り機のような「綾竹」といった機械が50台ほど並び、用途で使い分けています。
多様な機械を備えることで、織り方や柄のバリエーションが豊富であらゆる受注に対応できる強みがあります。
「メーカーが廃業し、うちにしかない機械もあります。故障したら自分たちで直したり、廃業した会社から機械を譲り受けたりして使い続けてきました」
機械のメンテナンスはもちろん、ボビンに糸を巻き取ったり、セットしたりするのもすべて人力で、職人の多くは70歳以上です。
「機械織りでも職人の手は不可欠です。熟練した職人がいるうちに次世代に技術を伝えることが急務と思い、ネットなどを活用して若い人の採用を積極的に進めようとしています」
機械織の組紐も、1本の製品ができるまでの工程はほとんど手組みの紐と変わりません。最後の組む部分に機械を使うことで年間9万本の生産体制を維持してきました。
松田さんは社長就任前から「直売できる商品」の必要性を感じていました。帯締めなどの和装小物の流通は100%問屋経由です。
「一定の品質で大量生産できる組紐メーカーは他になく、大きな仕事を受けられるのが強みでした」
しかし、コロナ禍ではデパートの催事などが無くなり、問屋からの発注も9割減で大打撃を受けました。年間生産の受注があったのでしのげたといいますが、材料費や燃料費などが高騰しても昔からの卸値を変更することは難しく、結果として利益幅は減る一方だったといいます。
糸伍には国際スポーツ大会や国体のメダル紐、世界的ブランドのディスプレー用品などの製作実績もありますが、そうした仕事で社名が表に出ることが無く、対外的な評価に結びつきにくいのが現実でした。
「糸伍の名前を世にもっと発信することが、伊賀組紐の可能性をつなぐことになる。社長になってからは好きな商品開発に全力で取り組みました」
新商品はキーホルダーやストラップなどからはじまり、コロナ禍前の19年秋には「着物に合うマスクカバー」を組紐で作れないか模索しました。組紐の機械を改造して幅の広い紐を組み、立体的に縫製したカバーができあがりつつありました。
しかし、20年から新型コロナウイルスが感染拡大すると、松田さんはマスクカバーをマスクに変更する判断をします。内側には浴衣の生地にも使われる高品質のガーゼを付けて衛生用品の基準をクリアするよう職人と試作を重ね、同年5月には「組紐マスク」の発売にこぎつけました。
通常、組紐には絹糸を使いますが、組紐マスクは軽い着け心地と手洗いで繰り返し使えるようにするためポリエステル素材を採用。それでも絹のように美しく柔らかい風合いを出すために染色や組み方を工夫し、デザイン性と実用性を両立しました。
1枚3600円でしたが、繊細なカラーバリエーションや高級感、何よりタイムリーなリリースが功を奏し、初回生産分の100枚は即完売。和装ファンからのニーズも高く、累積販売数は6千枚(22年12月時点)を超えました。
組紐マスクは売り上げ全体で見れば大きな数字ではありません。それでも「糸伍」の名前が世に出て職人たちのモチベーションがあがり、コロナ禍で明るい光となりました。
松田さんは同じころ「1本の矢だけでは弱い。3本くらい武器が欲しい」と考え、「組紐の靴紐」の開発も進めていました。社内会議中にふと「組紐の技術で靴紐を作れないか」と思いついたのがきっかけでした。
地元で信頼する経営者の先輩で、元プロレーサーの高橋毅さん(19年から糸伍顧問)に相談したところ、高橋さんの知人でスポーツ選手のマネジメントやコンサル事業などをしている会社「TSM」社長の松下敬一さんを紹介されました。
松田さんは最初、普通の靴紐を想定していましたが「松下さんからスポーツシューズ用の靴紐を作れますか、と宿題を頂いて…」と振り返ります。
開発にあたってスポーツ選手に話を聞くと「どんなにいいシューズを履いても、年3回くらいは靴紐が切れて取り換えるそうで、丈夫な靴紐にはニーズがあることが分かりました。伊賀組紐の特徴は丈夫でほどけにくく、カラーバリエーションが豊富なこと。これはいけると思いました」。
幅広い面をつくるマスクと違い、帯締めと形状が似ている靴紐への転用は容易に思えましたが、「最初はさまざまなデザインが組める機織り機で作ったら伸縮性が全くなくて固すぎ、靴に付けたら足が痛くて大失敗でした」。
そこからは「苦悩の1年半」と振り返ります。松田さんは徹底的に靴紐のことを調べました。
織機メーカーに問い合わせ、一般的な靴紐製造には製紐機が使われていることが分かりました。複雑な模様は作れませんが、その分はカラーバリエーションでカバーし、伸縮性など機能面の調整がしやすい製紐機での製造に方向転換しました。
さらに大手スポーツメーカーのスパイクやランニングシューズ用の紐を研究。一本ずつ繊維をほぐし強度、伸縮性、素材、幅や長さなどを調べました。
スポーツ用の靴紐製造を持ちかけた松下さんがマネジメントしていたプロ野球ロッテの荻野貴司選手や、サッカーJ1の選手など多くのアスリートに試作品をテストしてもらい、大きく前進。使い心地や耐久性を確認し、競技や選手個人の足に合わせたオーダーメイドの靴紐を何本も手掛けました。
「職人も大半が協力的で、よく頑張ってくれました。靴紐の要は幅と伸縮性ですが、思うような状態になるまでミリ単位で機械を調整し、100回以上のチャレンジをしてくれた職人たちのおかげで製品化にこぎつけました」
松田さんと職人たちの試行錯誤の末に完成した製品は「くみひもシューレース」と名付け、21年2月から自社ECサイトで販売しています。
組紐の靴紐には糸伍の強みがふんだんに生かされています。伊賀組紐の帯締めを作る技術で格子状に凹凸を付けて組み上げて、切れにくくほどけにくい靴紐になりました。
同社の実験結果によると、引っ張りに対する強度は大手メーカー品より4割程度高めで伸縮性も上回ったそうです。「テストしてもらったアスリートのなかには靴と足とのフィット感が高まり、パフォーマンスが向上したという声も頂いています」
伊賀組紐のカラーバリエーションの豊かさや色の鮮やかさも生かし、アスリートの好みや勝負カラーに合わせられることも、人気につながっています。
「くみひもシューレース」はメディアで取り上げられ、アスリート間の口コミも手伝い、じわじわ広がっています。現在は約5千足分が世に出て、ロッテの荻野選手をはじめ、野球、サッカー、陸上など様々な競技の選手に愛用されています。
松田さんは22年、靴紐事業を拡大するため、設備投資に500万円を投じました。資金調達には国の事業再構築補助金を活用しています。
「5年前に亡くなった祖父が『ピンチの時ほどイキってなあかんぞ』と言っていた言葉が印象に残っていて…。コロナで売り上げが9割落ちて苦しかったからこそ、いま頑張らねばと強く思えました」
23年1月からは靴紐を作るための機械が7台増え、生産量もそれまでの75%増、月に4千足分の生産が可能になりました。
松田さんは全国を回り、大手スポーツ量販店や企業に営業に出向き、学校にも積極的に案内をかけています。
21年に開かれた東京五輪マラソン代表の中村匠吾選手を輩出した地元の伊賀白鳳高校にも「くみひもシューレース」を提供しました。「夢は箱根駅伝でうちの靴紐を使ってもらうことです」
23年1月、「くみひもシューレース」は三重県グッドデザイン賞(工芸品等)に選定されました。
今後は一般向けの靴紐や、難燃性の糸を使った靴紐の生産にも取り組み、自衛隊や消防、警察へと販路を広げたいといいます。
「マスクも靴紐もタイミングが良かったり、人との縁がつながったりして形にできましたが、今も売り上げの9割は帯締めなどの和装品です。先祖代々の伊賀組紐を残すためにも、靴紐やマスクなどで利益を出し、経営面を立て直したいと考えています」
松田さんは糸伍ブランドや組紐の生産地・伊賀を広く知ってもらおうと決意しています。「組紐市場の活性化に取り組み、事業継続へとつなげていきたい」と力強く語りました。
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