「ドンと鳴らせば渦を巻くように共鳴しました。木々に囲まれたこの空間はいってみれば天然のコンサート会場。そのやまびこを全身に浴びたとき、これは是が非でもみなに聞かせたいと思った」
プロ奏者による演奏のほか、さまざまなワークショップが行われたそのイベントには100人近い参加者がありました。「ひとつの命が終わって、太鼓となって生まれ変わる。五感でそれが感じられる試みです。今後も年に1回は開催していきたいと思っています」
宮本卯之助商店は大正天皇御大喪用楽器の一式を謹製して以来、宮内庁御用を賜っています。1964年の東京オリンピックの開会式を飾った太鼓や、浅草神社の宮神輿も手がけてきました。取り扱いアイテムは和太鼓から神輿、雅楽器、祭り用品まで――まさに日本を代表する工房で、56人の従業員(アルバイトを含む)を抱えています。
宮本卯之助商店にとってハレの舞台である祭りも中断、お膝元の三社祭も例に漏れませんでした。ひっそりと静まり返った浅草で、宮本さんが出した答えが「森をつくる太鼓」でした。
「森をつくる太鼓」は間伐材を利活用した太鼓です。その杉は檜原村の林業会社、東京チェンソーズから仕入れています。
「友人から代表の青木(亮輔)さんの話を聞いていました。面白い人間がいるぞって。コロナになって青木さんのことを思い出した。間伐材で太鼓がつくれるかも知れないとひらめいたんです」
メッセンジャーでやり取りし、意気投合した宮本さんはおっとり刀で駆けつけます。
「青木さんの受け売りですが、東京はその4割が森林に覆われています(編集部注:東京都のデータによると、都内の森林面積は約8万ヘクタールで都の総面積の4割近くに及ぶ)。戦後復興の礎とすべく植林したんですね。ところが外材が入ってきて中ぶらりんの状態に。ぼくのアイデアはその一助になれるのではないか。ぼくは青木さんと固い握手を交わしました」
不ぞろいな木目をデザインに
仕入れた杉には木目が不ぞろいな材もありました。本来ならはじかれてしまうものです。しかし歩留まりを考えれば使わない選択肢はありません。宮本さんはこれをデザインとして生かそうと考えました。
「間伐材は模様はもちろん、色味もバラバラ。これまでの塗装では不格好でした。足を運んだインテリアの塗装会社に提案されたのが浮造り。ブラッシングにより木目の凸凹を際立たせる技法です。つるりとした表面をよしとする太鼓の常識を根底から覆すものですが、単純に面白いと思った。だったら振り切ってしまえと色も黒や茶ではなくグレーを選びました。仕上がってみれば東京という街にふさわしいモダンな面構えになりました」
残る問題は、通常の杉と比べて密度が低いということでした。
「密度が低ければかんなをかけるのもひと苦労です。かけた先からボソボソになってしまいますから。しかしそれ以上に懸念されたのが強度です。1年かけて実証実験を行いました。結論からいえば、なんら問題なかった。これまではある意味、オーバースペックだったのです。中身が詰まっていない間伐材は軽い。担ぐことを考えればむしろ理にかなった材でした」
サステイナブルで価格転嫁も抑制
22年3月に発表した「森をつくる太鼓」は伝統工芸品を世界に発信する都のプロジェクト「江戸東京きらりプロジェクト」の採択事業に選ばれ、和太鼓としてははじめてFSC認証(持続可能な森林管理を評価する制度)を受けました。
お膳立てを整えた「森をつくる太鼓」はすでに数十個が納品される幸先の良いスタートを切っています。
従来の太鼓と変わらない価格で提供できているのも強みです。
「浮造りはコストがかかる。しかし原材料費が抑えられるから、サステイナブルだからといってその分を転嫁せずに済みました」
引き取り手のない間伐材に息を吹き込む――。宮本さんは断ち切られていた共生の輪をつなぎ直しました。太鼓は鼓面を張り替えて使い続けるものです。太鼓づくりはもとよりサステイナブルな性格をそなえていましたが、その輪に一歩踏み込んだ格好です。
不良在庫を生かした椅子
「木は天然のものですから、ひび割れたり、ゆがんだり、虫に食われたりします。入社した時分から倉庫に眠っている木材の存在が気になっていました。あらためて数えてみれば2千、ありました。何げなくそのひとつをみると、椅子の座面のように湾曲している。これは椅子になるのではないか。この気づきが『The Curve』を生みました」
宮本さんは「江戸東京きらりプロジェクト」が募集していた、フランスのデザイナーとマッチングするプロジェクトに手を挙げます。そうしてプロダクト・デザイナーのピエール・シャリエさんの協力が得られることになりました。
椅子のかんながけは、太鼓と違ってえぐるように削っていかなければなりません。慣れない作業は困難の連続だったといいます。苦心の末に削り上げれば今度はシャリエさんから妥協のない注文がつきました。座面のかたちから細部の仕上げまで――。
一方で賛辞も惜しみませんでした。「こんなにも優れた技術がひとつところに集約されているのをみるのははじめてだった。彼らに出会ったことでこの仕事の80%はできあがっていました」と。
「The Curve」は23年1月に開催されたインテリア&デザインのトレードショー、メゾン・エ・オブジェ・パリでお披露目されました。国内外問わず30件近い問い合わせがあり、はやくも十数脚が納品されました。
「伝統文化を継承しようと思えばものをつくっているだけでは足りません。ものづくりに加え、『ことづくり』をしなければと考えてきました。ことづくりがある程度かたちになって、見直したものづくりのなかで生まれたのが『森をつくる太鼓』であり、『The Curve』 でした」
太鼓文化の裾野を広げる試み
宮本さんのいう「ことづくり」とは、宮本卯之助商店が14年に開校した和太鼓スクールの「ヒビカス」と、18年に旗揚げした舞台「いやさかプロジェクト」を指します。
「父の代から『宮本スタジオ』という名でいわゆるお稽古事をやってきました。これを継承発展させたのが『ヒビカス』です。現在、横浜、浅草、福岡天神に拠点があって、500人近い生徒さんがいらっしゃいます。彼我の差はなにかといえば、場の創出に重きを置いている点。のべつまくなし、さまざまなイベントを催しています。昨年(22年)は伊勢で行われた『神恩感謝 日本太鼓祭』で奉納演奏の舞台にあがりました」
「いやさかプロジェクト」は雅楽や民謡といった日本伝統の音楽を分解・再構成した舞台。横浜赤煉瓦一号館ホールや浅草公会堂、渋谷Bunkamuraオーチャードホールで上演してきました。
「浅草ではいまもすれ違えば『おはよう』『こんにちは』とあいさつを交わします。人間関係が薄まっていくばかりの現代はすこし、寂しい。そんな思いもありました」
ことづくりの重要性を海外で痛感
ことづくりの重要性を痛感したのは海外でした。
宮本さんは家業に入ってそうそう、北米太鼓カンファレンスに参加すべく渡米しました。コンサートやワークショップが行われるイベントで、宮本卯之助商店もブースを出していました。そこで出会ったのがみずからのアイデンティティーを太鼓に求める日系の人々でした。
「訪れたロスの日系仏教寺院では盆踊りが行われ、ロウソクをともして太鼓の調べに乗って一心に踊っていました。史実によれば太鼓が広まったのは1960年代の終わり。彼らはバチを振り下ろすたびに祖先との絆を深めてきたのです」
そのような大切な存在だったにもかかわらず、「太鼓をやろうと思えば30キロメートル先に住む忍者に教わなければならない」とまことしやかにささやかれていたとか。
良質なコンテンツを届けたいと考えた宮本さんは14年に現地法人のカドンを設立、オンラインをベースとした講座や物販を展開しています。
年功序列と分業制を見直す
「北米太鼓カンファレンスを任されたのは英語ができるからという、ただそれだけの理由でした」
宮本さんは大学を卒業するとイギリスに留学しました。「なにも考えていなかったんだと思う」と笑う宮本さんは、修士号を得たのちも世界中に散らばる同級生の家を転々としました。
「見かねた父に『日本に帰ってきたときくらいは手伝え』といわれて顔を出すように。顔を出せば口も出したくなる。そのうちに『だったらお前がやれ』、と。01年に入社しました」
海外から帰った宮本さんにとって、その製造現場は奇異なものに映りました。
「職人は夕方になれば酒を飲み始めるし、親方の機嫌が悪かったらつくってもらえなかったりする。昭和の価値観が色濃く残っていました。ぼくは入社2年目で訴えました。『社是社訓を除けば、変えてはならないものはない』と。取締役の肩書をもらっていたとはいえ、20代のペエペエです。たいへんな反発をくらいました。『お前の日本語は意味がわからない』とののしられたものです。こたえていないつもりだったのに、ある日鏡をのぞいたら10円ハゲができていました」
一つひとつ乗り越えていった宮本さんは家業入りして9年目の春、社長に就任しました。みずからの差配で推し進めてきたのが年功序列と分業制の見直しです。
「実力と年齢はかならずしも比例するものではない。プレーヤーとマネジャーでは違う才が求められる。俯瞰する才が感じられれば若くてもマネジャーのポジションに置きました」
製造現場は胴の削りや太鼓張りなど四つのパートにわかれますが、宮本卯之助商店では2年ごとに持ち場を回るローテーション制を採っています。
「お互い、半歩ずつ歩み寄りませんか、というところから始まっています。前後の工程を知れば滑らかなリレーションが生まれると考えました。いまでは職人みずから工程の改善に取り組んでくれるようになりました」
風通しのいい現場が採用に
現在、宮本卯之助商店の従業員数は56人で、年齢構成は20代から60代後半まで満遍なくそろいます。コロナ禍はさすがに控えましたが、それまでは毎年のように採用してきました。ここのところの際立った傾向は「太鼓や祭りに興味をもってうちの門をたたく若者が増えた」ということです。
風通しのいい現場づくりや「ヒビカス」などの対外活動が若者を集める種まきだったのは間違いありません。サステイナブルなものづくりが育っていけばそのうねりはさらに大きなものになるでしょう。
お父さんはなんといっていますか、と尋ねると、「人を褒めたりしない人なんです。だから直接聞いたことはないけれど、人づてでは『よくやっている』といっているようです」
さすが江戸っ子です。