梶さんの子どものころの遊び場は工場の庭。将来の夢を聞かれれば、迷わず「カジナイロンの社長」と答えていました。家業に入ってから、グループの社員数は250人から310人に増え、売上高は倍増。その背景には繊維業界の変化を見据え、組織改革に踏み切った強い意志がありました。
カジグループは1934年、梶さんの祖父が石川県かほく市で創業した繊維機械の製造を行う梶製作所が始まりです。その後、織物のカジレーネ、糸加工のカジナイロン、編みのカジニット、縫製のカジソウイングを設立。分業が当たり前の国内の繊維産業で、機械設計部門まで抱えるグループは、世界中を探してもほぼ見当たりません。
梶さんは「例えば、糸加工の際に『こんな糸をつくりたい』となると、機械設計部門のメンバーが新しい機械の開発や既存の機械の改造で要望に応える。情報交換をグループ内で密にすることで、最終製品の衣服をイメージした特殊な糸をつくれるんです」と言います。
他にはまねできない糸を使って織物や編み物でも工夫を凝らし、縫製までの工程を一貫して管理・生産する。グループ各社の強みをかけ合わせた取り組みを、梶さんは「付加価値創出型一貫生産体制」と呼びます。
梶さんは大学卒業後、家業の主要取引先だった大阪の総合商社に勤務。家業を継ぐまでの修業のつもりでしたが、アパレル部門の営業として飛び回り、大手通販の案件を新規獲得します。
「この案件で、商品企画から糸、生地、縫製までの全工程と流通の知識を学びました。父親からは早く帰ってこいと言われ続けましたが、軌道に乗るまで見届けたいと、3年で退社するはずが6年いました」
97年に家業の一員になり、約1年かけて繊維に関わるすべての現場と経理・財務などを経験します。
しかし、当時はグループ間交流がほとんどなく、各社バラバラで事業を行っている状態でした。さらに売り上げの大半を大手からの委託生産に頼り、それがなくなると一気に経営が悪化する恐れがありました。
開発力も営業力もない。将来を考えると、不安しかありませんでした。
バブル崩壊後の1990年代は、多くのアパレルがコスト削減で生産拠点を海外に移し、特に労働力が安価な中国は国内の繊維産地にとって脅威でした。危機感を抱いた梶さんは中国をはじめ、台湾、韓国、東南アジアなどを頻繁に視察。現地の工場経営者の勢いに圧倒されました。
「価格競争になったら勝てないうえ、彼らは最新設備への投資にも積極的。品質でも追いつかれる日が迫っている緊張を覚えました。当時は海外の工場から技術提携を持ちかけられることが多く、この先、国内で製造業を続けることは難しいんじゃないか、いっそのこと提携して海外に活路を見いだそうかと、毎日のように悩みました」
温泉宿で開いた「社員大会」
ほどなく先代の父親から専務としてかじ取りを任された梶さんが、最初に取り組んだのが社員の意識改革でした。外部委託依存から自分たちで仕事を獲得する提案型組織への移行です。
なかでも重視したのが開発力の強化。人材の行き来がなかったグループ内の開発部門のスタッフを倍増し、会社の垣根を超えて毎月会議を開きました。2005年ごろから「カジグループ」と名乗り始めたのも、各社の一体感を高めるためでした。
「先代は経営にはほとんど口を出さず、だからこそ思い切ったことができました。開発会議も、最初のころはなぜそこまでしなければいけないのか分かってもらえなかったと思います。でも、単体で勝負したのでは必ず立ち行かなくなる。グループ全体で事業をとらえる必要があると、会議で口酸っぱく言いました」
カジグループは、髪の毛よりはるかに細い超極細糸を使った薄地織物と薄手ニットが得意ですが、細ければ細いほど取り扱いが難しくなります。今では名だたる海外ブランドに認められた生地の開発も、「どうせやるなら難しいものに挑戦しよう」という梶さんのかけ声がきっかけでした。
グループ全社員と海外の幹部が集まる「社員大会」を始めたのもこのころです。年1回、300人以上の従業員が顔を合わせ、梶さんの想いや経営理念、将来への希望や危機感などを共有し、全体のベクトルを合わせました。
「社員全員の目線がそろわなければ大きなシナジーは生まれません。会社間や部署間の壁を取り払うには、人と人との交流が不可欠。だから、一緒に酒を酌み交わせて、裸の付き合いができる温泉宿を会場にしました。新しいものを生み出そうと思ったら、まずは社内コミュニケーションの活性化が大事。そのための努力は今も続けています」
社員大会で距離感を縮めた社員のなかから、自主的に「コミュニケーション向上委員会」が発足し、仕事はもちろん、バーベキューやボウリング大会といった私的な交流も生まれています。
自社ブランドを立て続けに提案
過度な委託依存から脱するには、大量生産・大量消費の市場ではなく、新素材の開発や高付加価値商品の製造に軸足を移すしかありません。
カジグループにその兆候が見え始めたのは、開発会議を始めて5年が経ったころでした。自分たちの提案が徐々に受け入れられ、やりがいを高める社員の姿に、梶さんは意識変革が着実に進んでいる手応えを感じました。
梶さんは10年に代表取締役に就任すると、グループ一丸の「付加価値創出型一貫生産体制」を加速させます。
委託加工の比率を抑え、自社のテキスタイル開発力や提案力を高めるため、14年に軽量で機能的なトラベルギアブランド「TO&FRO(トゥー&フロー)」、15年にはアウターを中心にしたメンズファッションブランド「TIMONE(ティモーネ)」を発表しました。
「北陸は合成長繊維で国内トップの生産規模を誇り、海外の有名ブランドにも数多く採用されていますが、そのことはあまり知られていません。苦労して作った生地も、価値が正しく理解されなければ単なる衣服の『部品』として、不当に値下げされるなどの憂き目にあいます。理想は『KAJI』のネームを衣服に付けてもらうことですが、誰もしてくれないなら自社ブランドで発信するしかないと思ったんです」
自社製品の開発が社員の結束力に
自社ブランド立ち上げは、開発会議をするようになって高品質の生地がつくれるようになったのにもかかわらず、ゴアテックスのようなブランドとして知名度が上がらないという、梶さんのジレンマが引き金になっています。
中川政七商店にコンサルティングを依頼し、技術力を生かせて競合の少ないトラベルギアを手がけるようになりました。自社ブランドはグループの主業である生地の販売を後押ししています。
オリジナル商品の開発は初めて。グループ各社からスタッフをかき集め、手探りのスタートでした。梶さんは前例のない挑戦が起爆剤となり、グループ全体の成長を促すことを期待しました。
「TO&FROは、軽量、コンパクト、強い、撥水といった機能を生かすものづくりをしています。ベストセラーのオーガナイザーはわずか9グラムで、おそらく世界一軽量です。世界一といえる商品があることは、社員の結束力の高さにもつながっています。3型でデビューしたTO&FROは、現在約100型を展開するまでになり、最初は30程度だった取扱店も今では約3倍です」
本業の成長や採用にも好影響
ブランド立ち上げには国の補助金を活用。展示会出展やホームページ制作、広告掲載などで認知度を高め、TIMONEは欧州で開催される世界有数のメンズファッション見本市への出展も果たしました。
19年には、カジレーネとカジニットのテキスタイル部門による生地ブランド「KAJIF(カジフ)」が始動。翌年にはその生地を使ったメンズのセットアップブランド「K-3B(ケースリービー)」を、eコマースでデビューさせます。
K-3Bはコロナ禍での誕生でしたが、SNSなどで人気が広がり、22年は初年度比で5倍の売り上げを達成。表参道ヒルズとGINZA SIXに実店舗を構えるまでになっています。
「自社ブランドは社内に様々な効果を生んでいます。消費者の声が直接聞こえるため、それをどう生かすかという発想に変わり、商品開発への感度が高まりました。展示会に出展した際も生地からできる製品のイメージが伝わりやすいため、本業のテキスタイル販売にもいい影響が出ています」
地方の製造業が人材確保に苦心するなか、カジグループでは新卒採用にエントリーする学生の数が格段に増えています。ブランド展開前は募集しても応募はほぼゼロでしたが、以降は毎年30〜100人の応募があるそうです。
「ほかにも新規事業として、炭素繊維複合材料という環境にやさしい新素材の開発に産学官連携で取り組んでいます。これは将来的に金属に代わる軽量化材料として、飛行機や自動車、風力発電のブレードなどでの市場拡大が期待される素材です。未来に向けて挑戦する姿勢を伝えていくことが大事。夢のある会社と思ってもらわないと人の心に響きませんから」
人が集まる繊維産業に
24年秋には65億円を投じて、かほく市に新工場の「カジファクトリーパーク」を開く予定です。高校跡地に延べ床面積約1万1千平方メートルの施設を建設。カジレーネの工場のほか、TO&FROやK-3Bの直営店、北陸の工芸品を扱うセレクトショップやカフェの併設を計画しています。
「日本の繊維を元気にするには、まずは繊維産業を人が集まる業界にしなければなりません。切り札になるのは、人を呼び込む強いコンテンツ。日本の観光業に製造業をかけ合わせるのが、繊維に関わる人間の新しい生き方ではないかと考えたんです」
敷地内には常時開放の公園スペースを設け、マルシェの開催や繊維を身近に感じてもらうワークショップ、他の繊維産地と連携したポップアップストアなどの計画も進行中です。新工場では太陽光発電や廃水再利用も進め「繊維のイメージを変えたい」と語ります。
「これまで海外から色々な誘いがありましたが、新工場の建設を決断したとき、この先もずっと北陸・石川県でやっていく覚悟を決めました。その理由は、日本でも世界と勝負できると思えたことと、やっぱり人です。社員の力を信じて進んでいけば、カジグループでしかできないものづくりを続けられる。その確信が、繊維の可能性を広げる推進力になっています」
家業に入ったときは不安しかなかったという梶さんが、走り続けてつかんだ大きな自信。創業100年を迎える2034年に月間3万人の集客を目指すという新工場の開設を前に、夢は大きく膨らんでいます。