夕刻の街中で足早に帰路を急ぐ人々の手に、3本のキャンドルが描かれた紙のバッグが握られています。キャンドルのロゴでおなじみの「アンリ・シャルパンティエ」は、洋菓子の急成長ブランドです。
シュゼットHDは1969年、蟻田さんの父・尚邦さんが兵庫県芦屋市で創業した小さな喫茶店が前身です。C3(シーキューブ)、カサネオ、バックハウスイリエというブランドも立ち上げ、23年現在、国内145店舗、海外6店舗を展開しています。
フランス発祥の焼き菓子・フィナンシェが看板で、シュゼットではオリジナルの発酵バターや自社挽きのアーモンドを使って人気を集め、年間2800万個を売り上げています。
蟻田さんが幼いころ、店はいつもにぎわい、自身も母に連れられてデザートを食べました。働く父はあこがれで、将来は自分もお菓子屋さんをやりたいと漠然と考えていました。
父は75年に神戸そごう、85年に横浜そごうに出店、87年には新ブランドC3の店を展開しました。蟻田さんは「高校に入ったころは、こんな大きな会社を継ぐなんてできないと思っていたほどです」。
転機は入社3年目に訪れます。顧客企業がコンビニスイーツを開発することになり、蟻田さんも携わりました。
「私なりにお菓子の知識や情報を持ち合わせており、クライアントからの問い合わせにもスラスラ答えられ、初めて仕事でほめられました(笑)。仕事は好きなことをやらなくては人に認めてもらえないと痛感し、家業に戻ることを考え始めました」
その後、働きながら早稲田大学大学院でビジネスを学び、入社9年目の2007年、蟻田さんは父に頭を下げ、シュゼットに入社しました。
父の他界で「腹が決まった」
蟻田さんはまずアルバイトとして東京の百貨店の店舗販売やスタジオ(製菓工場)での菓子作りからスタートしました。1年後に正社員となりますが、アルバイト期間を含めて2年半は現場に没頭します。
このころ、家業は赤字経営となっていました。「デパ地下ブーム」に乗って売り上げを伸ばしていましたが、00年代に潮目が変わったといいます。
「ロールケーキやシュークリームの専門店もデパ地下に参入しました。一方で、著名なパティシエがブームとなり、人の流れがデパ地下から個人の路面店に移り始めていました」
入社当時、社長は父から社員出身の2代目、さらに百貨店出身の3代目へと移っていました。蟻田さんが父から社長就任を打診されたのは入社3年目のことです。当時は「開発の仕事がしたい」と一度断ったといいます。
「父はその6年前にがんが見つかり、一度は寛解したのですが再発していました。傾いた経営を身内で解決したいと思ったのでしょう。父の意思は固く、私は1年間、副社長として会社を点検させてほしいと伝え、その後社長になると約束しました」
蟻田さんは父とともに、コンサルタントや大学院時代の教授にもアドバイスを仰ぎ「リバイバルプラン」のリーダーとして経営改善に動きました。
11年3月に父が他界してから3カ月後、蟻田さんは4代目社長になりました。「もう父には相談できない。不安はありましたが、むしろ腹が決まりました」
経営資源をフィナンシェに集中
当時、シュゼットのアイテム数は250種類近くに膨れあがり、経営資源が分散していました。蟻田さんは創業時から人気のフィナンシェを中心に、120種類まで絞り込みます。「新商品で赤字になったので、昔から愛されている商品に力を入れようと」
フィナンシェは最盛期には総売り上げの3割を占めましたが、当時は15%程度まで落ちていました。
「100年後、200年後も続くお菓子文化を築くというシュゼットの基本理念を怠ったため、赤字を招いた。改めてフィナンシェに注力すると決め、理念を再確認しました」
数値管理と評価制度を見直し
蟻田さんが徹底したのは数値管理です。
「どの商品が利益をもたらしているか見極め、社員の評価も数字を重視しました。100個を売った人より、105個売った人の方が販売実績は高いですよね、と」
創業者の父も数字には目を光らせていました。しかし、それが社員の評価には生かされていなかったといいます。誰もが納得できる販売数という評価軸で認められる。そうした風通しの良さを蟻田さんは重視しました。
父の尚邦さんは亡くなる直前、「今の会社を(真の)株式会社にしてから死にたい」と語っていたといいます。
「オーナー社長が売りたい商品を、仰せのままに販売する社員が出世するのではいけない。こうした改革も父の遺志でした」
ほぼ100%自社製造に
社長就任から1年でフィナンシェの売り上げ割合が戻り、黒字転換を実現しました。13年に製造部門を分社化、14年にはシンガポールに海外1号店をオープンします。
15年にはフィナンシェの年間販売個数(12年実績、2366万個)でギネス世界記録に認定され、その後、22年まで8年連続で記録を更新しました。
ケーキも創業当時からの味で愛され続けています。国内外151店舗で、品質を保ちながら量産し続けている秘訣は何でしょうか。
「例えば、生クリームは100リットルの大きなミキサーではなく、今も2リットルの家庭用ミキサーでその都度泡立てています。何度も泡立てると工程数が増えるので本来なら採算が合わない。しかし、2リットルの泡立てを100回行い、在庫をきっちり管理すれば、味のクオリティーと量産を両立した上で収益につながるやり方を確立できます。そうした工程の見直しもリバイバルプランの一貫でした」
スタジオと呼ぶ工場では、専門スタッフが最適なタイミングで生クリームを泡立て、独自開発のオーブンでフィナンシェを均一に焼き上げます。ラインアップが過多だった就任前は、新商品開発のために製造の4割を外注していましたが、今はほぼ100%自社製造です。
製造部門は別会社ですが店舗と同じ敷地で展開し、社員は調達する材料から製造工程まで熟知して販売することが可能です。
海外でも同じ品質のお菓子を
海外でも現地にセントラルキッチンを整備し、日本と同じ品質の商品を提供。生クリームは職人が泡立てています。「世界151店舗を展開しても、1軒のケーキ屋だった時代と同じ作り方を続けています」
焼き菓子の一部は日本から輸送もしていますが、それは全体の10%です。ケーキ(生菓子)がメインで、日本の職人が現地の工場で活躍しています。
「輸送や製造のハードルを考えると、どうしても日本で製造した商品を冷凍して送るとか、タルトなど焼いた生地にフルーツをのせるだけのケーキを提供することが多くなります。しかし、タルトだけでお菓子作りの技術者は育成できません。幅広い技術を身につけた職人の腕で、世界中のお客様を喜ばせたいと思っています」
業績不振の個人店を継承
蟻田さんは、個人の菓子店やパティシエなども吸収し、協働する体制を整えています。
看板商品はあるものの何らかの事情で業績不振のケーキ・パンに関連する事業について、屋号はそのままにグループ入りしてもらい、仕入れや営業のバックアップを行っています。
「隣のケーキ屋さんがつぶれたら、一時は自社の売り上げが伸びるかもしれませんが、業界全体で考えれば決していい状況ではありません。お菓子やパンは小麦粉、卵、生乳など共通の具材ばかり。(個人店と)協働することで、材料費を抑えながら共存共栄でき、シュゼットも商品開発のヒントにもつながる。業界の永続性を考え、M&Aという形を提案しています」
東北支援も氷上競技部も
蟻田さんはCSR活動にも積極的です。社長になった11年に東日本大震災が発生。阪神・淡路大震災で地元兵庫の人たちに支えられたシュゼットは12年、「Smile for Tohoku from ASHIYA」という東北支援プロジェクトを立ち上げました。
通常価格で販売されるお菓子を一つ減らし、その一つ分の材料・資材費の金額を被災地への募金として預かり、さらに同額をシュゼットからも寄付する仕組みです。22年5月までの寄付総額は約5千万円にのぼり、今も継続中です。
15年からは東北の製菓調理専門学校でパティシエを目指す学生のために、返済不要の奨学金制度を設立。これまで23人(15〜23年度)の学生に給付しました。
18年には社内に氷上競技部を設立。小山陸選手(現コーチ)はショートトラックで20年の西日本選手権総合優勝に輝きました。島根くるみ選手、松林佑倭選手も同競技で冬季五輪を目指しています。
シュゼットは元々、地元西宮市のリンクのスケート教室に協賛してきました。蟻田さんは冬季競技の選手は夏季競技と比べて就職先が少ないと聞き、実業団を作ったのです。
「選手の就職先でお菓子業界は選択肢に入りにくい。だったら社員として迎え、世界を目指してもらおうと決めました」
選手はお菓子作りなどの社業にも励みます。松林選手は最近まで年間通してシフトで就業していました。スポーツに打ち込める環境を作り、アスリートがあこがれるお菓子メーカーにーー。シュゼットが追求するのは、そんな企業のあり方です。
目指すはお菓子の総合商社
コロナ禍では、ひどい時で8割ほど売り上げが落ちた月もありました。「その後、巣ごもり需要で持ち帰り菓子の売り上げが戻り、昨年(22年)あたりからインバウンド需要もあって、コロナ前の売り上げを超えました」
小麦価格の高騰、国内の鳥インフルエンザによる卵の不足という逆風にも、世界に販路を広げているシュゼットは影響を最小限に抑えたといいます。
社長就任から12年。就任時に160億円だった売り上げを1.5倍の250億円まで成長しましたが、蟻田さんはまだ発展途上と捉えています。
世界には年間売り上げ800億円に到達した高級菓子メーカーもあるといいます。「世界にスタジオと店舗を構えて日本と同じ味を届ける。欧州や米国でさえあきらめた難題に挑み、世界で一番お客様に喜ばれるお菓子屋さんになったとき、800億円は夢ではないと思っています」
23年10月からは「お菓子と生き方をつくる」という新スローガンを掲げ、今後はチョコレートやアイスクリームの専門ブランドを展開する構想もあります。「和菓子だって視野に入れています」
蟻田さんが目指すのは、オールジャンルをカバーするお菓子の総合商社なのです。