小野瀬家は戦前まで「小野瀬桐材店」として材木の卸業とげたの小売りを行っていました。小野瀬さんの祖父・徳男さんが戦後、荒れ果てた土地をみて「これからの地域に必要とされるのは地域の足となる自動車だ」と考え、1954年、オノセモータースに業態変更しました。
次男の小野瀬さんが子どものころ、父が経営する家業は自動車整備業から中古車販売、板金塗装、国産・輸入車ディーラー、タクシーにまで広がり、最大で年商85億円、従業員100人になりました。会社を大きくし、地域のためにPTA会長も務める父の姿はかっこいい存在でした。
しかし、小野瀬さんが中学生のころからバブル崩壊で業績は悪化。ディーラー権とともに社員を譲渡し、店舗も次々と閉鎖して元の整備工場のみに縮小しました。それでも父は経営が苦しいそぶりも見せず、小野瀬さんは家業の状況を知ることなく大学に進み、SMBC日興証券に就職します。
しかし、社会人2年目の2011年、ついに店舗の土地と建物、実家が競売にかけられました。「征也たちの会社員の信用で買い戻してくれれば事業自体は続けられる」。そんな父の言葉に、当時24歳の小野瀬さんは悩みました。
小野瀬さんは2200万円の借り入れにサイン。家業は一度廃業しますが、新会社の「小野瀬自動車」として再出発しました。
「代えがきかない」家業へ
小野瀬さんは組織や人についてより学びたいとリクルートに転職。中途採用を支援する事業部で経験を積みます。
一方、再起動した家業は専務を中心に経営が続いていました。長兄は大手メーカーに就職しており、小野瀬さんは「いずれは自分が後を継ぎ再建させる」という漠然としたイメージでキャリアを積みましたが、確固たる覚悟は持てないままでした。
そんなとき、仕事で出会ったアパレルPR会社の創業者に背中を押されます。「地元で半世紀以上続いているのは、地域で必要とされているから。家業ではあなたの代えはきかない」
それから小野瀬さんは帰省するたび、会社や実家に飾られている賞状などが気になるようになり、従業員に現状を聞く中で「自分が家業を再建することで地域にとって価値が生まれるのでは」という思いを強くしました。
2015年、上司にUターンについて相談すると「人を動かして数字をつくったことはないだろう。もう少し組織を学んでからでも遅くない」と引き留められます。
「当時、自分が関わるものはすべて把握しなければ納得できなかったし、任せられなかった。上司はそれに気づいていたのです」
そこから1年。サブマネジャーとして新人育成を任され、人を育てて組織を成長させることを学んだあとUターンします。16年6月、31歳のときでした。
ボロボロの社屋からのスタート
Uターン当時の従業員は7人で、年商も1億円ほどにまで落ち込んでいました。小野瀬さんはまず、社長がおらず「中ぶらりん状態だった」家業の代表取締役に就任します。
「お客さんが来なくてとにかく暇でした」。朝の出社後に掃除する習慣はなく、壁紙もなくて社屋はボロボロでした。
接客でも、名乗りもせずに電話を受け、来店客へのあいさつもなく、整備士の作業服はヨレヨレで汚れがついたまま。工場内での喫煙も横行し、車の陳列はバラバラで、のぼりは色あせて破けたまま。規律は何もない状態だったといいます。
小野瀬さんは同時に入社した社員(現店長)と掃除から始めます。天井のクモの巣を払い、色あせたのぼりも交換。積みっぱなしの産業廃棄物を2人で軽トラックに詰め込み、処理場との間を何往復もして整理しました。
「見せ方」を変えて経営が安定
すぐに利用客が増えるわけではありません。パワーポイントで車検やレンタカーのチラシを作り、2人で手分けしてポスティングや企業への飛び込み営業を続けました。
実績のなさを理由に新規融資は下りず、顧客が見える部分から環境整備に取り組みます。車の清掃の徹底、朝の掃除、敷地内のごみ拾い、展示車の陳列、のぼりの立て方に気を配り、中古車情報誌への掲載でPRや来店客への販売提案など休みなく動くこと約8カ月。前年15年の年商1億円という数字から、16年は倍の2億円を超えました。
奮闘する3代目を見た同業の社長の口添えもあり、地銀から融資が受けられることに。新規の販売車両やレンタカー事業のメドもつくと、店には約30台の展示車が並び、理念に共感する人材の採用も進んで、経営は徐々に上向きました。
車の価格帯を大幅にアップ
顧客視点での「見せ方」の変化を通して、小野瀬さんは強く実感します。「組織も人も、思いや考えていることを形にしないと伝わらない」
どんな人に利用してほしいか…。小野瀬さんは考え抜いた末、それまで1台約40万円だった中古車の価格帯を、一気に約140万円にまで上げる決断を下しました。
「40万円で買った車は、壊れてもうちの整備工場に持ちこまずに買い替えられてしまう。その点、高価格帯の車を購入するお客様の方が車を大事にするため、車検や点検で再来店していただけるし、車両保険を付けてくださいます」
今も籍を置くベテラン整備士のそんな言葉に背中を押されました。
単価のアップに向けて、整備や接客などのサービス品質を社内のロープレイング、社外研修などで高めました。すると年々客単価は上がり、客層も60代から30代のファミリー層に変わり、再来店率や紹介数も上がりました。
しかし、売り上げも社員数も増えて順風満帆と思えた21年7月、ある「事件」が起こります。
社員の不正で「心はボロボロ」
その日、経営者の勉強会に参加していた小野瀬さんに、会社から1本の電話がかかってきました。
「注文書にある下取り車両がどこを探しても見当たらない」
顧客から下取りした車両が、本来保管すべき場所に存在しないというのです。勉強会を飛び出し、ヒアリングなどを進めると、営業社員による下取り車両の横流しが発覚しました。
「販売のことは自分にすべて任せてください」。将来の幹部候補として入社したその社員が笑顔でそう言っていただけに、小野瀬さんのショックは大きかったといいます。
「全部自分で把握することから部下に任せるスタイルを、前職で学んで戻ってきたつもりでした。全て任せた途端に反対のことが起きて何を信じて進めばいいのか、心はボロボロでした」
「任せる」と「見ない」は違う
小野瀬さんを前向きにしたのは、先輩経営者からの痛烈な一言でした。「横流しは確かに悪い。でも、不正を起こせる環境や隙間を作ったのは征也自身。経営者として学ぶ良い機会だよ」
「任せる」ということは「見ない」ということではない。自分で不正を招いてしまった業務フローや在庫の配置、管理方法を考え直さなくては…。
小野瀬さんはそこから、業界内で起こり得る不正のやり方の事例を頭に入れ、再発防止の体制づくりを行いました。
人事も見直し、信頼が置けて管理能力に適性があったフロント担当の社員を経理総務に据えます。「納得するまで突き詰め、少しでもおかしいと思ったことは上司でも意見できるし、分かったふりをしない。何事もうやむやにしないタイプなので抜擢しました」
その社員が車検管理や勤怠管理、現金出納帳やレジ回りも担当。売掛金の回収も、日次で全社員が把握できる体制にしました。営業だけでなく全社員に定期的に事業報告を行い、誰もがお金の流れを把握できるようになりました。
「人は人によって磨かれる」
小野瀬さんは「人は人によって磨かれる」という言葉を大切にしています。「社員同士だけでなく、僕自身も想いを伝えてぶつかり合わないと成長しないと思っています」
Uターン当初から1対1で対話の時間をとっていましたが、人事や数々の改革、会社の方向性について、その目的を丁寧に伝えているといいます。
社外に向けた発信も意識しています。「整備工場は一般のお客様は入りにくい。自分たちから発信して透明性を高める」という目的のもと、スタッフブログやインスタグラムにどんな車を扱い、どんな社員がいるかを積極的に投稿。全国の同業他社からは、ブログをどうやって定着させたのかという問い合わせがくるそうです。社名のキーワード検索による新規顧客の獲得にも結びついています。
技術力の高さやコミュニケーション能力の高さの可視化にも努めています。整備士は整備技能コンテストで茨城県代表に選出。フロントの社員はホリデー車検のAJFC(オールジャパンフロントコンテスト)で全国優勝に輝き、保険担当者も全国で準優勝しています。
「コンテスト出場を機に『茨城の小野瀬自動車さん』という見方をされることで、自然と社員の視座が上がり、社内外で触発し成長し合える環境になりました」
「伝える力」を意識して
「自動車整備業界は大手企業の不正が明るみに出て、全体のイメージに大きく影響を与えています。しかし、そんな専門性の高い業界だからこそ透明化する良い機会だと思っています」
同社では「くるまの町医者」というキャッチフレーズを前面に掲げています。創業者の祖父・徳男さんの「自分や家族の命を守る自動車のかかりつけ医のような整備工場でありたい」という思いから生まれた言葉です。
小野瀬さんのUターン後から、担当整備士が顧客に直接説明したり、事故修理前後の状況を撮影し、納車時に渡したりするなどの透明化を図ってきました。毎日の全社朝礼では、日次で司会を変えながら近況報告やグッドニュースを伝える「一言スピーチ」を行い、月例の全体会議では本の感想を言い合い、発信力や多様性の尊重、チームワークを鍛えています。
コロナ禍を経て、小野瀬さんは「会社の価値は売り上げや従業員数ではない時代に突入している」と言います。
「自分自身、様々な方に勇気を与えてもらいました。一度は終わった当社でも、人と組織の力で変わることができました。全国各地の企業や経営者の皆さん、働いている方々に勇気を与えられる存在になりたいです」
数々の危機を経て「伝える力」を備えた組織に変わった小野瀬自動車。これからも「地域から日本を元気にする集団」という経営理念を貫くべく、組織作りを続けます。