「大学卒業と同時に小高莫大小工業に入社し、9年後の2005年に社長の座を譲り受けました。財務は父任せだったのではじめて知る事実に言葉を失いました。売り上げはものの見事に下降線をたどっていたのです。入社時に2億円あった年商は半減していました」
「当社はリブ(伸縮性をもたせた襟や袖に使うニット)という、技術力が求められるパーツをメイン商材としていました。そのころはまだ、中国にもっていったところで製品化に耐えうるレベルではなかった。メートル売りという小回りが利く販売スタイルも(取引先の大手メーカーには)評価されていました(従来の商習慣ではミニマムは一反からだった)。おかげで一気に仕事がなくなったわけではありませんが、結果的に真綿で首を締めるように経営を圧迫していきました」
「高橋さんは残反(余った布)をわけてほしいとおっしゃいました。聞けば布ぞうりをつくられているのだが、地元の工場がバタバタと潰れてしまって入手できなくなったそうです。それはお困りだろうとかき集めました。後日、お礼にと送られてきた草履に足を滑り込ませて目を丸くしました。かつて味わったことがないほど心地よい履き心地だったのです」
布ぞうりとは古着を裂いて編んだ草履のことです。高橋さんは余生の楽しみのひとつとしてこの草履をつくっていました。
これはものになると確信した小高さんは高橋さんに協力を仰ぎ、1年かけて草履のもととなるニット紐を完成させます。
「編み機は当社に古くからある紐編み機。機械の扱いには慣れていますが、耐久性や柔軟性を考えたときには服のそれとはまるで違います。編み上がるたびに高橋さんに試してもらいました」
草履本体(土台)の製造も高橋さんにお願いし、自社サイトで紹介したところ、入荷するなり完売する状況が何カ月も続きました。本格的に立ち上げることを決めた小高さんは生産体制を整えます。
「といってもつくり手はそうそういるものじゃありません。12年に(布ぞうりの)ワークショップを開講、生徒さんを一本釣りする作戦に出ました。狙いはあたり、3人がアウトワーカーとして仕事を受けてくれることになりました」
30万円の投資が次の一歩に
足場を固めた小高さんは、世界最大級のインテリア&デザインのトレードショーといわれるパリのメゾン・エ・オブジェへの出展を決めます。ところが書類審査ではねられました。
「(草履は)日本古来の履物であり、プロダクトには絶対の自信をもっていました。考えられる敗因は一つしかありません。ペラ一枚のお粗末な書類がいけなかったのです。わたしはデザイン会社を頼ることにしました」
カタログ制作に30万円かかると聞いた小高さんは二の足を踏みます。
「社内には社長が好き勝手なことをやっているという空気が漂っていました。社員の手前、30万円をポンと出すのは厳しかった。その金はいつ回収できるんですか――。筋違いだとわかっていてもそう口をついて出ました。担当からはこういわれました。『ブランド名やロゴは決まっていらっしゃるのでしょうか。よろしければすべて込みで30万円でやりましょう』と」
先方の対応に救われるも、ブランド名を決める会議でまた一悶着ありました。
「『MERI』という候補を聞いたとき、わたしは落胆しました。メリヤスだからメリだなんて安易すぎると思ったんです。膠着すること2時間。担当は口を開きました。『あなたにとってはありふれた名前でもその草履を届けたい人には新鮮に響くはずです。だってメリヤスなんていまや死語なんですから』。目から鱗が落ちるとはこのことでした」
ブランディングを煮詰める
あらたな書類を送った小高さんは無事、審査を通ります。これをきっかけに海外はもとより、国内の販路も開拓していきます。
「デザイン会社とやり取りするかたわら、わたしはブランディングを煮詰めました。最大の課題は販売価格の見直しです。売り出しは3600円でした。『MERI』は一足編むのに3時間かかるので、工賃だけで売り上げは消えてしまいます」
「ビジネスとして成立させるには少なくとも倍の値付けが求められる。目に飛び込んできたのが、40代独身女性が室内履きに年間5千円を支出するという市場調査。彼女らをターゲットとすべく、北欧をコンセプトに据え、価格は6千円としました。北欧由来のあたたかみのあるカラーパレットと布ぞうりのコンストラクションを掛け合わせた『MERI』は想像を超える出足をみせました」
父から社長を解任される
パリで顔を売った小高さんは翌13年夏、全国の百貨店の催事に飛び回りました。いく先々で確かな手応えを感じ、意気揚々と会社に戻った小高さんは臨時株主総会の通知を受け取ります。
結論からいってしまえば、その年の9月、小高さんは社長を解任されます。株式の6割を保有する父の判断でした。
「社長が1カ月以上会社を留守にしたわけですからわたしにも落ち度がありますが、やることなすこと気に入らなかったようです。売り上げが落ちていると歯に衣着せずいっていましたしね」
14年には成田空港への出店が決まっていました。これを推し進めるにはあらたな会社が必要です。小高さんは「MERI」事業を小高莫大小工業から切り離し、退職金300万円と創業支援資金1千万円を元手に解任から1カ月後、新会社オレンジトーキョーを創立します。
「MERI」を新会社で成長
綱渡りの状況ながら2店目の出店にも踏み切ります。それはかねて店をもちたいと思っていた、すみだ北斎美術館の通りにある物件でした。
「いずれ本店は構えなければならない。事務所兼から始めればなんとかなるという算段でした」
いつ切れるともしれない足元の綱は「MERI」が巻きついて、みるみるうちに太くなります。初年度2500万円だった売り上げは2年目で5千万円に達しました。
「その年末、取引先への振り込みを終えたわたしは心臓がとまりそうになりました。口座には3万円しか残っていなかったのです。資金繰りのことがすっぽり抜け落ちていました。三が日が終わる否や商工会議所に駆け込んでマル経融資(小規模事業者経営改善資金)を受けました」
小高さんは水面下でベトナムに生産拠点を広げていました。1年かけて職人を養成、L/C決済が必要なその地での生産を始めていたのです。
コロナ禍で生産を国内に回帰
「MERI」は俳優の石原さとみさんを起用した東京メトロのCMに取り上げられ、さらに勢いをつけます。しかしそこにコロナが襲いかかりました。
「コロナでインバウンドがゼロになりました。在庫を大量に積み上げていたのでまずはこれをさばかなければなりません。つくり手には頭を下げて手を休めてもらいました。わたしもいったん立ちどまり、会社のありようを見直しました」
ワークショップを通じた人材育成が実り、アウトワーカーは見習いを含めれば19人に。小高さんはベトナムに依存していた生産体系をあらため、「MADE IN JAPAN」を打ち出します。
目の届く体制を築いたことでこれまで以上に完成度が高まりました。さらなる履き心地の進歩を目指し、鼻緒や土台などの設計にもメスを入れます。
その分、単価を上げました。6千円でスタートした「MERI」は現在、原材料の高騰などもあり1万2千円に。
17年にオープンしたECサイト「甘橙東京」のリニューアルも敢行します。補助金300万円を使ってSEO対策とグレードアップを図りました。以降、すべての写真はプロに撮影してもらっています。
「よくて月10万かそこらだったECの売り上げは前年対比でいえば1000%強。年商の7割は直販が占め、直営店舗とECの割合は半々になりました」
年商は7千万円を超え、社員数も4人に膨らみました。
有名店と強固な関係を築く
コロナで卸先は減ったものの、いまも続く取引先とは強固な関係を築いています。文具店の伊東屋やファクトリーブランドを集積した工場十貨店など、いわゆるファッション業界とは一線を画す取引先が多いのが特徴です。書店の有隣堂でも定期的にポップアップストアを開催しています。
「意図して狙ったわけではなかったのですが、結果として相性が良かったようです」
商材の拡充も行いました。「TUTUMU(ツツム)」と名づけたソックスがそれです。指割れ形状を特徴とする「TUTUMU」は、冬場にも「MERI」を履いてもらうために考案されました。製造は手袋工場に委ねています。
「小高莫大小工業はニッチな商売で評価されました。リブという商材といい、メートル売りという販売方法といい、『MERI』も『TUTUMU』もそういう意味ではうちらしいブランドです」
社長復帰で提案型の工場へ
19年に先代ががんで亡くなり、小高さんは20年3月、小高莫大小工業の社長に返り咲きます。
「わたしは驚きを隠せませんでした。なにからなにまで追い出されたあの日のままだったんです。事務所の机の位置さえ変わっていませんでした。驚いたけれど、変わっていないということはいくらでもやりようがある。オレンジトーキョーで培ったノウハウがあれば面白いことができるだろうと考えました。受け身の下請け工場から、提案型の工場へ。――これを掲げて経営に乗り出しました」
小高さんは23年ぶりに新卒を採用し、6千万円の融資を受けて7台の機械を導入。そうして22年にははじめて展示会を行いました。
「色柄豊富な140種のニットのオリジナル生地を発表しました。オレンジトーキョーのデザイナーが兼務して新人とともにつくり込みました。反応は良かったけれど、それまでの(無地メリヤスを得意としてきた会社の)イメージがあったのでしょう。結果には結びつきませんでした。次回は売るためのフォーマットを整えます。小高莫大小工業の顔となるメートル販売を打ち出します」
中小企業のDX講習会に参加して、生産管理アプリも作成しました。
「下請けの工場というものは注文が入れば、『せーの』で生産にとりかかる。そこに管理という概念が生まれる余地はありませんでした。もやが晴れるようでしたね。そのアプリを使えばどの機械がどの程度稼動しているかが一目でわかる。可視化し、共有化することで効率的な生産体制が築けそうです。たとえばキャパオーバー気味の注文は外注に出すことも可能になるでしょう」
歴史ある工場を次代へ
再任後の売り上げは年1千万円ペースで伸びて1億2千万円まで戻しました。
「オリジナル生地のプロジェクトも始まったばかりですし、とくになにをやったというわけではありません。ただ、若手も入って社内の雰囲気は明らかに変わりました。そういうところが好循環を生んでいるのかも知れません」
現場は現在、5人体制に。歴史ある小高莫大小工業を次代につないでいく――。それは小高さんのあらたな使命です。
4年前に、父の最期を看取ったのは小高さんでした。
「いいたいことはあるけれど、もはや詮無いこと。わたしは毎日のように見舞いました。『MERI』が紹介されているJALの機内誌をもっていったら、看護師さんにうれしそうにみせていたと、あとから知りました」