岐阜県大垣市にある田中工業所は1949年に創業し、排水処理装置の一種である「加圧浮上装置」という機械の製造を主力としてきました。現在は5代目 田中 佑子(たなかゆうこ)さんが若手女性社長として奮闘しています。
実家の母から会社が倒産間際であることを聞いた直後に、後継者である兄が32歳という若さで事故死しました。両親を心配した田中さんは、兄の葬儀の1ヵ月後に、田中さんは退職をして、実家に戻りました。
「継ぐ気はない。いずれ誰かに継いでもらえる会社に」との思いで、資金繰り表を作成していく中で、会社の経営状態も上向きになっていき、継ぐ覚悟を決めたのが、後継者である兄の死から9年後でした。
エンジニアが営業も兼務 営業力が大きな課題
田中さんとスタッフ全員のたゆまぬ努力で資金繰り問題には少しゆとりを感じられる部分も増えてきましたが、経営をさらに安定させるには、大型案件の獲得や受注数を増やし、売上アップは必要不可欠です。
田中さんが感じていた大きな経営課題は、営業職の人材がいないということでした。
加圧浮上装置に関する顧客とのやりとりは、すべて設計者が営業窓口になっていて、初めから設計を意識した提案ができる反面、顧客との日々のやりとりに時間を割かれて、「設計に集中できない」「見積提出までに時間がかかる」「レスポンスが遅い」というデメリットが発生していました。
そのために必要な、会社としての営業力が圧倒的に不足していました。
そこで田中さんは、大手求人サイトとハローワークに求人募集をかけることにしました。
大手には待遇で及ばなくても 思いだけは人一倍
「給与や住宅補助など、自社としてできるかぎりの条件は提示しましたが、大手企業の待遇には及びません。だから、他のどの会社よりも熱い思いを書きました」と話す田中さん。
他社は給与や待遇面などの条件を書きこむことが多い「事業者からのメッセージ」という欄は、田中さんからの求人者に対するメッセージで埋め尽くされていました。
女性後継者の右腕になってくれる人材を探しています。今までの営業経験や知識を生かして、一緒に成長していきませんか?基本的には残業はなく家族との夕食の団欒を大切にする会社です。条件が合わないかも、どんな会社かわからない、後継者って一体どんな感じなの等気になる事があれば見学や相談からでもどうぞ!
けれども、なかなか応募はありません。
やはり好条件を提示しないと、良い人材も集まらないのかと感じていた時に、驚きの出会いが訪れます。
思いを受け取ったのは58歳大手企業の元営業部長
求人募集開始から1ヶ月後。
愛知県のハローワークから「御社を希望している、愛知県の方がいます」と一本の電話が入ります。
求人票に住宅補助制度について触れていないのに、隣県の人を採用するなんて想像もしていませんでしたが、一度会ってみることにしました。
応募してきたのは、岐阜県の隣にある愛知県の大手自動車メーカー系列の会社で営業部長をしていた58歳の男性。
ハローワークの募集要項上、年齢制限を設けることができなかったのですが、田中さんの心の中では30~40代の営業経験のある男性を採用したいと思っていました。
でも応募してきたのは、定年を間近にした58歳。
当時を振り返り、元営業部長はインタビュー中にも「実は今でも大事に、募集要項の画面を保存しているんです。他社は一方的な条件だけを記載している中で、田中工業所の熱い思いが心にガツンと響いた。もう、気になって気になって仕方なくなりました」と、うれしそうに保存してある画面を見せてくれました。
仕事でもう一花咲かせて人生を終わりたい
田中工業所に初めて訪れた、元営業部長の第一声は「定年前に長年勤めた会社を辞めて、仕事でもう一花咲かせて人生を終わりたい。自分の実力を試したい」でした。
当時、大手自動車メーカー系列の会社で営業部長をしていて、約70人の部下をマネジメントすることが主な業務。立場上、現場に足を運んで顧客に提案することはできません。
でも、自分はやっぱりプレイヤーとして働きたいという葛藤を抱きながら勤めてきた部長職に区切りをつけて、もう一花を咲かせてみたいと感じていました。
転職エージェントにも登録をして、複数社から「ぜひ、来て欲しい」と提案をされてはいましたが、どの会社からも「管理職」での採用を望まれていました。
でも、心は動きません。給与や待遇ではなく、働きがいを求めていたからです。
そうなると、もう心は田中工業所へ一直線です。
「会社に初めて行った瞬間に、今すぐにでも働きたいという気持ちでいっぱいでした。会社の雰囲気もすごく明るくて、ここしかないと思ったのです」
会社をもう一花咲かせて大きくしたい
「会って5分で、この人を採用したいと思った」と田中さん。
一方、社長である田中さんは、元営業部長が初めて来社した時を思い返し、このように話します。
「仕事で人生にもう一花という気持ちと、会社を大きくしたいという私の気持ちが一致した気がした」
しかしながら、心の中は複雑です。
一緒に働きたいと強く思う反面、元営業部長というキャリアを積んだ人を採用する器のある会社ではない、給与も待遇も好条件を出せなくて申し訳ないと感じていました。
初めて会ってから10日間、資金繰り表とにらみ合い、元営業部長に1円でも多く給与を支払うことができないかと試行錯誤しました。
悩んだ結果、その旨をしっかりと伝えると共に、最後に「本当にうちなんかで良いのですか?」と何度も何度も聞いたそうです。
すると、元営業部長からは「それでも良いです!」という快い返答があり、田中さんが数日後に電話をした際には、すでに引っ越しを決め、アパートの契約も終了していたと言います。
「この人だ」とお互いに惹かれ合う採用
「この人だ」とお互いに惹かれ合う採用ができた、田中工業所。
さて、どうしてでしょうか?
それは、採用前にお互いの気持ちをしっかりと伝え合うことができたからです。
就職、転職をする際に、もちろん給与や待遇面で会社を選ぶ人が多いですし、生活を成り立たせるためには非常に大切なことです。
採用する側としても、好条件を提示できるかどうかは必ず重視しなければならない項目でしょう。
しかしながら、田中工業所の採用事例は、決して条件面だけで成り立っているわけではありません。
お互いの人生の目標や仕事に対する考えが合致すれば、条件をも超えるモチベーションが発生することの証明です。
培ったスキルを最大限発揮 営業力アップ
大手企業の元営業部長が入社して、1年。
会社の大きな課題であった「営業力強化」にも、大きな変化が見られます。
これまでの田中工業所は、エンジニアが設計と営業を兼務していたので、他社では当たり前にできていた早めのレスポンス、見積り提出、新規取引先の開拓などができていませんでした。
今では、新入社員の元営業部長が営業として、全案件をカバーしています。
日々の顧客とのコミュニケーション、挨拶回り、見積り作成、適正価格のリサーチなど、営業業務としての当たり前を、当たり前にすべてこなしています。大手企業で積んだキャリアを活かしているのです。
最近では、大型案件も受注できるようになり、会社としての収益性もアップしました。
「ありがとう」の一言で会社を助けたくなる
「ありがとうって、いつも伝えてくれるんです。もう褒めすぎだよって、恥ずかしくなっちゃう」と、照れくさそうに教えてくれた元営業部長。
その上、会社に行くのが楽しくて楽しくて、始業開始時間は朝の8時なのに、我慢しきれずに7時に自宅を飛び出してしまう時もあるそうです。
実のところ、前職と比べて年収は約400万円下がったそうですが、後悔する気持ちは全くありません。
むしろ残りの人生を懸けて田中工業所という会社をもっと大きくして、自分の年収を自分でアップさせるとまで考えています。この会社なら十分に実現可能で、苦境に立ってもワクワクが止まらないとすら話します。
周囲も驚くほどのモチベ―ションは、社長からの「ありがとう」の一言です。自分の存在ごとまるごと認め、常日頃から感謝の気持ちを伝えてくれる社長と一緒に過ごす毎日の中で、会社を助けたい気持ちがあふれてきます。
「惹かれ合う採用」の末に出会った二人が、これから田中工業所にもたらすドラマティックな展開が楽しみです。