槇野産業のキャッチコピーの一つが「粉体業界のコンビニエンスストア」です。食品から工業製品まであらゆる物を粉にするため、「問い合わせは毎日届いても、原料は全て違うので営業社員も面白がっています」と槇野さんは言います。
槇野鉄工所として創業した同社は、マキノ式粉砕機という独自製品を開発。戦後の食糧難ではパンの原料として、アワやヒエなどを粉砕する機械を作り、食品に強い粉砕機メーカーとして名を広めました。
同社の粉砕機は回転板とスクリーンと呼ばれる部品を、用途に合わせてカスタマイズし、様々な粒度に対応できるのが強みです。「零コンマ数ミリから1センチくらいのものまで扱えます」
SDGs(持続可能な開発目標)を受けた粉砕機の発注も増えています。バイオマス発電所の原料の木粉、液晶金属を取り出すために用いるパソコン基盤の粉体、竹プラスチックの原料などにも用途が広がり、土壌改良の肥料に使うウニの殻を砕く機械も求められました。
粉を作るには繊細な技術が必要です。「同じコシヒカリの粉砕でも、新潟産はできるのに西日本産はできないということがあります。季節の影響もあり、冬のテストで大丈夫だった機械が、夏はうまく粉にできないこともありました」
同社は製造に関する情報をデータベース化。最近はQRコードで管理し、細かい原料の違いにも対応しています。
これまでに約2万台の粉砕機を送り出しました。現在は代理店として販売する機械なども含めて約45種類をそろえます。直近の年商は9億円(前年比2.7億円増)で、従業員数は31人です。
会議で出た数式が分からず
槇野さんは子どものころ、後継ぎになることは特に意識していませんでした。工場と家が別で「中学の時、工場に行くと暗くてよくわからない機械が並び、ずっと怖い印象でした」
大学は文系学部に進み、お坊さんを務めた時期もありました。29歳の時、寺をやめて実家に戻ります。「特別な資格があるわけでもなく、3代目の父(利光さん、現会長)から『うちの会社に入るしかないんじゃないか』と言われて入社しました」
自身を「ガチガチの文系」と言う槇野さんは、戸惑いの連続でした。「会議でホワイトボードに数式を書かれても、何のことか分かりませんでしたね」
経理や総務を担当する中で、原価や加工費、販管費などの仕分けを教わりながら、家業のことを覚えました。
そのころ、槇野さんが課題に感じたのは、技術や営業ノウハウの継承です。「入社当時は年配社員が多く、知識の経験則に不安を感じました。例えば、ある機械を久しぶりに作ったとき、担当者がもう在籍しておらず、組み立てる順番が違ってもう一度組み直すこともありました」
「砕いてみた」動画を発信
槇野産業は、先代の父と常務がいち早くホームページ(HP)を作り、情報のデータベース化も進めました。それでも、学生時代に趣味でテレビドラマの情報を載せたHPを作っていた槇野さんには、改善点も見えました。
「当時のHPは文字が多くて画像が少なく、開くスピードも遅かった。機械メーカーのHPは製品写真が1枚載り、横に説明をつけたシンプルなものが一般的でしたが、大手ショッピングサイトを参考に、画像を増やそうと思いました」
専門性が高い機械の性能を分かりやすく伝えるため、試行錯誤の末、ユーチューブを活用し始めます。「中堅社員と話したら、原料の粉がパッと出てくる動画がいいと提案されました」
同社の公式ユーチューブで、シリーズ化したコンテンツが「粉砕機で原料粉砕やってみた!」です。ハンマークラッシャーという機械で煮干しや石膏ボードを砕く動画では、硬い原料を粉末にしつつ、粉砕物は機械の内部に全く付着しないという性能の高さを伝えています。
別の機械で、かんなくずやグラニュー糖を粉にする動画もアップしています。槇野さんが自ら部品や粉砕手順を紹介し、激しい機械音もそのまま出します。
元々カメラ好きだった槇野さんは、ユーチューバーなどのヒット動画を参考にしながら、テロップの入れ方、サムネイルの作り方も独学で覚えました。「小さな会社なので、僕が決断すれば動画を発信できます。長い説明は眠くなるので、新入社員が見ても分かる動画を意識し、露出を増やしました」
HPに動画のアップや各種リリースをこまめに載せると、HPからの問い合わせが増え、月40件ほどにのぼりました。電話の件数も増えたといいます。「ユーチューブを見た方から、パーツの購入や製品テストの依頼もありました」
インスタ発信が中途採用に
同社は展示会にも意欲的で、23年は5回出展し、24年も4回を予定しています。目を引くブースにするため、槇野さんは工夫を凝らしています。
「機械の横にモニターを置いて粉砕の動画を流すほか、粉体のサンプルを何百個も並べています。製品のパネルを置いて、原料の粉にする前と後が分かるような写真も用意しました。機械のことをよく知らない人にも分かりやすい設計にして、僕らはしゃべり過ぎず、お客さんのニーズを聞くように心がけています」
展示会には前から出ていましたが、「動画を流し始めたのは、僕が関わるようになってから。ブースで足を止める人は増えているように感じます」。
同社はインスタグラムのアカウントを二つ持ち、うち一つは大学生のインターンが運用しています。機械を紹介しつつ、社員へのインタビュー、社員旅行を楽しむ様子など、親しみやすさが伝わる投稿になっています。
槇野さんは「15年働いていると、外から来た人間と思っていても内側に入っているんですね。なので、外からの目線で発信してほしいという思いで、インターンにインスタ運用をお願いしています」と話します。
インスタの発信は中途採用に効いているといいます。「今働いている30代後半の営業社員は、合同就職面接会で一目散にうちのブースに駆け込んできて『実はインスタグラムを見たんですよ』と言われました。『ものづくり系で、デジタルマーケティングにも力を入れている面白そうな会社で働いてみたい』と」
最近、別の営業社員も中途入社しました。「問い合わせに対して打ち返す『待ちの営業』がメインの会社ですが、インスタなどでの積極発信を面白そうと思ってくれたようです」
カフェを探す感覚で機械を
特殊機械を扱う会社でありながら、手を変え品を変え、発信力を高め続ける背景には社会情勢の変化があります。「一般の人がカフェを探す感覚で、機械を探すようになりました。槇野産業はBtoBですが、実はBtoCとそんなに変わらないのではないでしょうか」と言います。
「かつては粉砕機をよく知る工場長などの上層部が、『あそこの会社に電話しておけよ』という指示を部下に出して、注文が生まれていました。しかし、今は検索エンジンにキーワードを入れて、上から出てきた順に電話やフォームで機械の問い合わせをしてくるようになりました」
「大学の先生に話を聞くと、今の学生は就職課に足を運ばず大手就職情報サイトで仕事を探すそうです。それって、ネットでカフェを見つける感覚と同じではないでしょうか」
社員主導で進める技術継承
槇野産業は業務改善も進め、5年ほど前から請求書はすべてデジタル化しました。
「手書きの労力は大変で、複写の書類だと、底にある受領書の文字が見えないこともありました。取引先の理解を得てデジタル化を進め、以前は3時間くらい残業していた請求書作業で残業することがなくなり、圧倒的に経理が楽になりました」
槇野産業でも若手への技術継承は大きな課題です。「営業はあまり出ておらず、図面も描けず、現場で機械を作ったこともない」と言う槇野さんが重視するのは、社員主導の取り組みです。
例えば、様々な加工に自動対応できるマシニングセンターを導入した際は、若手社員主導で勉強会を開きました。「製造部は知識の平準化を目指して、勉強会を重ねています。営業も案件ごとにメンバーで話し合うことで、スキルの底上げと継承を図っています」
経営者イベントのパイプ役に
槇野さんは社長就任前から、異業種の経営者とのネットワークを広げています。都内23区で順番に開催している経営者交流会「下町サミット」では、各区の経営者とのパイプ役を務めています。
下町サミットから派生した製造業の団体「ものコト100」では副会長として、勉強会などを重ねています。
経営者や金融機関とのネットワークが広がり、仕事の受注につながったケースもあったそうです。
「人のつながりが増えれば、経営者も孤独ではなくなります。自分の業界の常識は他業界では非常識ということもあります。他社がどうやって人材定着などの悩みに向き合っているかを共有できるのは、貴重な機会です」
社長就任で社員に語った決意
槇野さんは22年4月から4代目社長になりました。その2カ月前、書類に父のハンコをもらいにきたときに「次、社長にするから」と言われたそうです。
「そろそろと思ってはいましたが、本当に今変わるんだと。社長になると自分で決断するので、第三者的な感覚は消え、頭の回し方が変わりました」
社長になったとき、槇野さんは社員の前で二つの決意を述べました。
一つは「機械を買ったお客さんの狙い通りの粉や製品ができ、『槇野産業から機械を買ってよかった』という会社にすること」といいます。
もう一つは、もうすぐ創業100年となる家業の重みを感じさせるエピソードでした。
「入社後、先々代の祖父が亡くなった時、お葬式にOB社員の方が参列しました。その方が棺を開けて、祖父の顔を見た瞬間、号泣したんです。そして僕に『君のおじいさんにすごくお世話になったし、槇野産業に入ってよかった』と語りかけました」
「それまで、定年退職したら『ありがとう、お疲れ様』でおしまいと思っていました。でも、自分が辞めても、働いていた会社のトップの亡きがらを見て泣く姿が衝撃的だったんです。もし辞めた後も『槇野産業に入って良かった』と社員に心から言ってもらえるような会社にしたい。それが経営者としての思いです」