福島県沿岸部に位置するいわき市。人口35万人のこの町で、地元の人たちにひときわ愛されている食品スーパーが「マルト」です。市内に24店舗、茨城県に13店舗を展開し、大手総合スーパーですら撤退が相次ぐ昨今でも、年間800億円以上と好調な売り上げを維持。商圏内での売り上げシェア率は50%と、地域住民の広い支持を得ています。
マルトの社是は「心からありがとうと言って下さるお客様という名の友人をつくること」。お客様に喜ばれる仕事をしつづけていれば売上は上がると考え、その姿勢を貫いてきました。
マルトは、1892年に安島さんの曽祖父・ 安島松太郎さんが万屋をはじめ創業しました。1964年に祖父にあたる安島祐司さんが事業転換し「株式会社マルト」を設立。20坪ほどの小さな食品販売店からスタートしました。
「『ただいまー!』と学校から帰ったら、そのまま休憩スペースで宿題をしたり、売り場で惣菜づくりを見せてもらったり、従業員さんたちに可愛がってもらいました。生まれた瞬間から周りに人がいるような環境で、ずっと幸せに感じていましたね」
高校生のころには漠然と周りの人たちへ恩を返せるようになりたいと考えるようになり、家業を継ぐことを意識したそうです。大学進学と共に上京。在学中には夜間の調理学校にも通い、学業と並行して調理師免許を取得しました。その理由を「勉強があまり得意じゃなかったので、ほかにできることを増やしておきたかった」と笑います。
大学卒業後、2008年に株式会社マルトに入社。滑川店の鮮魚部門に配属され、仕入れや売り場で小売業の基本を叩き込まれました。
「365日毎日のように市場に通い、その日の水揚げやせりの状況を見ながら仕入れを行いました。おかげで、漁師さんや卸売業者さん、メーカーさんなどと言葉を交わし、店に商品が並ぶまでにどんな人たちが携わり、どんな想いがあるのかを知ることができました。鮮魚の担当をできたことが今の自分の基盤となっています」
そして入社から順調に経験を積み3年が経とうというころ、東日本大震災が発生しました。
震災翌日、全店が現場判断で再開
2011年3月11日。休日だった安島さんは沿岸を運転中に、激しい揺れに見舞われました。道路がうねり、ラジオからは大津波警報を呼びかけるアナウンスが流れました。急いで自宅へ車を走らせ、妻と0歳の長男の安全を確認。その後、すぐに店舗へ向かいました。普段なら20分で着く道は混乱を極め、到着できたのは6時間後のことでした。
その日は、社長以下、幹部メンバーが東京出張で出払っているという状況。各店舗では、店長判断で直ちに来店客と従業員の安全確保、被害状況の確認を行いました。市内にあるスーパー24店舗のうち、全店舗が破損、10店舗が停電、20店舗で断水という状況。にもかかわらず、驚くことに一部店舗では夕方から、翌日には全店舗が営業を行ったそうです。
「私も現場にはいましたが、連絡も取れないですし全店舗の状況は把握できていませんでした。社長や幹部から指示が出たわけではなく、現場判断でそれぞれが行動し、(結果的に)全店営業という形になったんです」
自分たちも被災しているなか、「店を開けることが使命」と従業員自ら動き、駐車場に品物を出して営業を開始。レジが使えないため、商品は1個100円や200円という価格設定で、お客さんに直接手渡しをして販売しました。とある店舗では、1,500名以上のお客さんが列をなしたそうです。混乱は生じなかったのでしょうか。
「正直、朝に店へ行ったら壊されていることも覚悟していました。ところが、盗難に遭うようなことは一度もなく、お客さま自らがきちんと列に並んでくださったんです。『地域のために』という従業員のマインドとお客さまのおかげで混乱することなく営業できました」
しかし、翌12日には想像もしなかった事態が起こります。東京電力福島第一原発の水素爆発です。
原発事故で物資が来ない
いわき市の中心部は、原発から直線距離で約50キロ。ニュースを受け、マルトは直ちに原発に近い市内北部4店舗に、避難するよう指示を出しました。原発事故はその後も悪化し、15日には、いわき市の一部を含む原発の半径20~30キロ圏内に、政府から屋内退避指示が出されることに。強制的な指示ではないものの、住民や企業の市外への避難が相次ぎました。
安島さんも家族を茨城県の親族宅へ避難させ、マルトの従業員も3分の1が自主避難をしました。市内のコンビニや他のスーパーマーケットは、物資の不足などでほとんど閉店。町はまるでゴーストタウンのような静けさに包まれました。さらに、原発から飛散した放射性物質を懸念して、配送トラックやタンクローリーが関東からいわき市以北になかなか入ってこなくなり、商品もガソリンもないという異常事態となりました。
「いわき市民の多くの方は避難しましたが、もちろん市内には避難できない方もたくさん残っていました。私たちが店を開けなければ、残された方のライフラインが閉ざされてしまう。骨をうめる覚悟で使命感に突き動かされるように営業を行いました」
残された市民のため営業を継続
16日、マルトは拠点を5店舗に絞り、閉めた店舗の商品を営業店舗に集めて縮小営業を開始しました。10時の開店前にはすでに1,000名以上の行列ができていたそうです。
商品は棚に並べるとすぐになくなってしまう状況でした。そこで、地震の被害で交通規制がされた道路を自社の車が走ることができるよう、生活物資を運ぶ「緊急通行車両」として警察に申請。茨城県の店舗まで商品を調達しに行きました。それだけではなく、全国の中小スーパーなどが加盟し、共同仕入れを担うシジシージャパン(CGC)や仲間の企業から物資が届けられました。地元の運送会社や取引先の営業担当者が、自家用車で商品の配送に協力してくれたそうです。
いわき市の災害対策本部はマルトを重要拠点に位置づけ、ガソリンの給油を優先しました。従業員たちは乗り合いで出勤して、なんとか営業を続けることができました。市内に十分な物資が届かないという状況は3月25日ごろまで続きましたが、周囲の協力と従業員の奮闘が支えとなりました。
中には津波で家が流されたにもかかわらず、「お客様のために自分も何かしたい」と家族総出で出勤してくれる人までいたそうです。マルトでは出勤者へ慰労金を支給。ツイッターに書き込まれた応援メッセージを毎日掲示板に提示するなど、従業員のモチベーション維持にも勤めました。この日々を振り返り「地域や沢山の方々が一丸となってマルトを営業させてくれました。支えてくれた従業員や地域の方々には感謝しきれないぐらい」だと安島さんは話します。
備えが生きた豪雨災害
東日本大震災の経験を経て、マルトでは災害時マニュアルや緊急連絡網の構築、備蓄商品の強化などを進めました。マニュアルは時系列で対応できるようになっており、気象・災害情報の把握から停電時の商品管理方法、販売計画の見直し、物流の確認、営業決定方針などがまとめられています。さらに、従業員や取引先と「地域のライフラインを守る」というマインドを共有することに力を入れました。
いわき市はその後も、2019年の令和元年東日本台風、2023年の台風13号に伴う大雨災害と、二度の大きな水害に見舞われ、広範囲に渡って甚大な被害を受けました。マルトも各店舗が被害に遭いましたが、震災時の経験を生かしマニュアルに従って安全確認などの初動対応をすみやかに行い、早期復旧、営業を再開させました。それは、市民が「もう営業できるの?」と驚くようなスピード感でした。
「水害の際はすぐに従業員に帰宅を指示し、水が引いてから私たち上層部で水かきなどの対応をしました。ありがたいことに周辺企業とも連携が取れていて、復旧作業を手伝っていただき早期に再開することができたんです。チームワークよく対応できるノウハウが蓄積され、地域連携の大切さを実感しています」
また、設備の見直しも続けています。東日本大震災後には、各店の屋根にソーラーパネルと蓄電設備を設置。また2019年の豪雨を受け、全店舗の出入り口には止水板を設置しました。この備えが功を奏し、2023年の大雨災害では被害が最小限で済んだそうです。
さらに、自社で給水車を購入。水の備蓄に力を入れてきました。
「断水が、生活にも商品提供にも致命的な障害であることを身をもって経験しました。ライフラインを守るために、まずは『水』が大切なんです」
安島さんは「1人当たり、2リットルペットボトル6本入りの水1箱は必ず持っておいてほしい」と言います。
「とはいえ、自宅で家族全員分の水を備蓄するのはなかなか難しいと思います。そこで、マルトでは災害時にいわき市民全員に配れるぐらいの水を備蓄しています。定期的に水の特売をすることで在庫を回しているんです」
地域と連携したスーパーを目指す
2011年に約730億円だったマルトの売上高は、2021年には約850億円と、順調に推移。家庭の支出全体が落ち、小売業の競争が激化するなかで売り上げを伸ばしているように思えますが、安島さんは厳しい見方をしています。
「小売業はほかの業種と比べたら利益の少ない業界です。昔の先輩たちは『スッと出てパッと消えるからスーパーだ』なんてよく言っていましたけど、常に危機感は持っています」
そんな安島さんが力を入れているのは地域連携事業「いわき愛プロジェクト」です。地元の高校生との商品開発や小学生のお弁当コンテスト、市民と減塩を意識した健康づくりを進める「いわきひとしお」、サッカーや野球のマルト杯開催など、マルトの地域連携の活動は多岐にわたっています。
「子どもたちが成功体験を積んだり、農家さんが喜んでくださったりすることが私たちにとっては一番なんです。人に愛されなければ企業の存続意義はありません。創業者たちは一貫して「地域の人を幸せにしたい」という想いで営業を行ってきました。その想いを忘れず、地域の役に立つという使命感を持って店づくりを続けていきたいです」