れんが窯に2時間かけて炭火をおこすと、その日の気温や湿度によって焼き方を変えながら6時間焼き続けます。炭火は一定になることがないため、ひっくり返すタイミングが1秒ズレるだけでも焼き上がりが変わる繊細な作業です。山中煎餅本舗では、先々代の時代から勤める職人が親子2代にわたって変わらぬ製法を守り、せんべいを手焼き製造しています。
渡部さんは4人きょうだいの3番目。幼いころからせんべいを焼く職人の後ろ姿を見て育ちました。「せんべいってぶわっと一気に膨らむんですよ。それが面白くて今でも何時間でも見ていられます」
店を継ぐつもりは一切なかったという渡部さんですが、きょうだいの中で唯一、家業をよく手伝ったそうです。工場での袋詰め作業や店番など「好きだから苦にならなかった」と振り返ります。
高校卒業後は美容師を目指して上京。20代で結婚し、千葉県で夫と子ども2人と暮らしていました。穏やかな生活を送っていた2008年、父が急逝したという知らせが届きます。急きょ、家業は都内で会社員をしていた長男が継ぐことになりましたが、「自分には合わない」と3年たたずして辞めてしまいます。
渡部さんは「後継ぎがいないなら廃業もやむを得ない」と考えていました。しかし、きょうだいからは「店を継ぐのはひとみが適任じゃない?」と思いもよらない言葉をかけられました。「いやいや、無理だから!」と、その場でとっさにと答えた渡部さんでしたが、子どものころから家業の手伝いが好きだったことを思い出し、引き受けることにしました。
「最初は軽い気持ちで、『パート代くらい稼げればいいや』みたいな感じでした(笑)。なので、経営に関して右も左もわからないところからのスタートでした」
千葉から夜通し通い続ける
2011年、店を継いだ渡部さんですが、当時は下の子が小学校1年生になったばかり。そこで月3回、喜多方と千葉を往復して家業を手伝うところからはじめました。
夜、子どもを寝かしつけて午後10時に家を出発。夜中の2時に喜多方に着き、仮眠を取って、その日は一日仕事。翌日、学童のお迎えの時間までに帰るという生活を6年間続けました。
山中煎餅本舗では、職人が製造を担当し長年働いている販売スタッフもいたため、渡部さんは経理などの事務を担当しました。急逝した父が事務関係を一手に担っていたため引き継ぎなどはなく、手探り状態での店舗運営でした。
「当初は書類の扱い方がわからなかったり、支払う必要のない請求を確認しないまま払い続けていたりと失敗続きでした。失敗するたびに学んで今に至っています。何もわからないまま楽観的に飛び込んだから続けられているのかもしれません」
引き継いだ当初、経営は右肩下がりの赤字だったそうです。渡部さんはわからないなりに、主婦目線で店舗の改善に取り組みました。
パッケージデザインを一新
まずはじめたのは、店内の掃除や、通りを歩く人に笑顔であいさつするという基本的なことです。改めて俯瞰して店を見ると、商品パッケージに統一性がなかったり、サイズの合わない袋を使用していたり、デザインで商品の魅力を伝えられていないことに気づきました。
山中煎餅本舗では、父の代から喜多方伝統の「会津型」をデザインしたパッケージを使用していましたが、一色刷りだったこともあって目立たないことが課題でした。渡部さんは、昔ながらの趣を守りつつも現代に合ったデザインにしたいと考え、せんべいの種類ごとにイメージカラーを設定。2枚入りと5枚入りの2パターンを作り、「何個も欲しくなり、ギフトとしても贈りたくなる」ようなパッケージを目指しました。
さらに、プチギフトとして贈りやすいサイズの「こたまりせんべい」を開発。パッケージのイラストには福島の伝統工芸品の「起き上がり小法師」と「赤べこ」を取り入れ、土産品として手に取りやすい工夫をしました。
観光客の購買意欲をかきたてるパッケージにしたことで、卸先の土産物店から「色々な柄のせんべいを並べたい」という要望が増え、手に取る人も増えていきました。
「たまりせんべい」が全国表彰
2017年、長女が専門学校、長男が中学校に進学するタイミングで、長男とともに拠点を喜多方市に移し経営に専念することを決意します。
渡部さんは、職人が手焼きするせんべいの価値をもっと高めたいと考えました。
「炭火で焼いたせんべいは、ほどよく水分が残り、外はカリッと中はもっちりとしてお米の味がしっかりするんです。手間ひまかけて作る伝統の味だから、もっとお客さんに伝わるようにPRしなければと考えました」
なかでも、喜多方の各家庭で昔から作られてきた伝統の「たまりせんべい」は、看板にしたい商品でありながらも売れませんでした。米としょうゆだけで作るシンプルな商品ゆえに、特徴がなく選ばれにくかったのです。
渡部さんはその価値を伝えるため、店頭や催事などでお客さんに直接商品を説明することからはじめました。試行錯誤しながらも炭火焼きのおいしさを伝えるうち、自然と「100年変わらぬ製法で作るたまりせんべい」というキャッチフレーズが生まれました。そのキャッチフレーズが消費者の心をつかみ、徐々に売れる商品へとなっていきました。
自信を持った渡部さんは、全国から優れた観光土産品を選ぶ「全国推奨観光土産品審査会」(日本商工会議所と全国観光土産品連盟が共催)に「喜多方たまりせんべい」を出品。品質が高く評価され、2015年から3年連続入賞しました。冠がついたことで、現在は最も売れる商品になりました。
せんべいの価格を3倍に
職人が1日に焼けるせんべいは2500枚が限度です。生産量は大きく増やせないため、渡部さんは先代の時代から価格を3倍に値上げしました。
「うちは喜多方で唯一、手焼きの手法を守り続けている店なのにもともとがボランティアのような価格でした。機械で大量に製造できる他店と同じ価格帯で勝負したら間違いなく潰れてしまいます。むしろ価格を引き上げて『なんでこんなに値段が違うの?』とお客さんに思ってもらうくらいの方がいいと考えたんです」
祖父の時代には機械化に乗り出し、価格競争で生産量を増やそうと試みたこともありました。しかし、思うようにいかず倒産寸前に追い込まれたといいます。だからこそ、渡部さんは手焼きを貫く姿勢こそが店の強みだと考えます。
それでも以前の店舗では、工場と販売店舗が分かれていたため炭火焼きの様子を見せられず、店頭でその価値を伝える難しさを感じていました。渡部さんは店舗と工場を一体化させるため、2020年、喜多方市中心部から現在の幹線道路沿いに店と工場を移転しました。
移転先は店舗とは別に、敷地内に喜多方伝統の蔵があることを条件に探しました。活用方法は決まっていなかったものの、喜多方に人が集まる仕掛けを作りたいと考えたのです。
コロナ禍を逆手に宿泊業に挑む
ところが新店舗のスタートとともに、新型コロナウイルスが観光業を直撃します。店の売り上げは8割減となり窮地に立たされました。店を開けることができず時間ができた渡部さんは逆境を逆手に取り、蔵の活用に動き始めました。
「蔵を活用して宿泊施設を作ろうと考えました。喜多方は宿泊施設が少なく、観光客はラーメンを食べ終えたら(南側の)会津若松市方面に移動してしまうため、滞在時間が短いことが課題でした。喜多方はコンパクトな町なのでまち歩きも楽しめますし、米どころで日本酒もおいしい。気軽に宿泊できる場があれば、町の魅力を伝えやすいのではと考えました」
渡部さんは事業再構築補助金を活用し、蔵を宿泊施設に改修することを決意。簡易宿泊営業許可を取得し、2023年11月、築100年の蔵をリノベーションした1棟貸しの宿「蔵の宿MARUTOKO-まるとこ-」をオープンしました。
宿は最大6人が宿泊可能。1階に土間・ダイニングキッチン・お風呂・トイレ、2階に寝室と8畳の畳スペースがあり、蔵の趣を感じさせます。価格は6人利用で1人7920円から。オプションで提携店から郷土料理が提供されるほか、隣接する店内では無料でせんべい焼き体験ができます。
1日1組限定の1棟貸のため、運営や管理は渡部さん一人でも行えるそうです。「接客はせんべい店とそう変わりませんし、主婦歴が長いので掃除なども難しくはありません。今後は少しずつ従業員に入ってもらう予定ですが、みんな経験豊富な主婦なので心配していません」
現在、週末にはコンスタントに予約が入るようになりました。予想外に、観光客だけでなく、喜多方市民が女子会や友人との集まりで使うことも多いそうです。宿泊の売り上げは店全体の15%を占め、コロナ前よりも増加しています。
宿泊利用のない日曜日には土間部分を体験スペースとして1日3千円で貸し出しています。ワークショップやハンドメイドイベントが開かれ、店周辺ににぎわいが生まれました。
「宿泊業を始めたことで、宿泊者がせんべい店に興味を持って購入してくれたり、反対にせんべい店に来たお客様が宿に興味を持ってくださったりという相乗効果を感じています。喜多方に宿泊してくださることで、日本酒や郷土料理、漆器など町の歴史や文化に触れる機会を作れることがうれしいです」
宿泊施設を増やして魅力を高める
主婦から転身し、新事業を立ち上げるまでになった渡部さん。「家業を背負う覚悟なんて今もありませんし、好きだから続けていられると思います。主婦歴が長かったので、経営も家計管理のような感覚なんです」と気負いはありません。
それでも、喜多方の観光を盛り上げる意欲に満ちています。「古いものを壊して新しくすることは簡単ですが、伝統を守りつなげることを大切にしたいです。今後は、休眠状態の蔵を活用して宿泊施設を増やし、喜多方の魅力をもっとアピールしていきたいですね」
主婦の視点からはじめた一つひとつの工夫が実を結び、渡部さんはさらに大きな目標へと進んでいます。