目次

  1. 戦前から製造されていた国産デニム服 通説覆す
  2. 沼津大空襲が工場は全焼 池に沈めた“宝”とは
  3. 祖父や父の話を聞いて気づいた優位性
  4. 父から学んだ「積小為大」 縫い上げに畏敬の念
  5. 代表に就任 「営業と工場の壁」を取り払う
  6. 国内に生産拠点がある強みと誇り
  7. 高祖父母が命をかけた「スターオーバーオール」を復刻
  8. 受注生産の制服・作業服と自社ブランドの開拓

 高品質・高機能な国産作業服で知られる山本被服の創業は、101年前。創業者の山本彦太郎さんがアメリカに渡ったことがきっかけです。彼はもともと地元・静岡、伊豆地方松崎で牛馬の売買を生業にしていましたが、台風ですべてを失ってしまったのです。

 「妻子もおり生活は行き詰まったそうです。その窮地を脱するための渡米でした」と、玄孫にあたる山本さんはその理由を説明します。彦太郎さんは、1ヵ月の船旅を経て現地に渡り、炭鉱夫になります。

 しかし、差別や言葉の壁で仕事は行き詰まり、音信不通になってしまいます。そこで妻・ゑきさんは、子どもを両親に預けて自身も渡米。

 「高祖母も肝が据わっているというか……広大なアメリカ大陸で、夫を見つけ、自身も洗濯婦になりながら、意気消沈する夫を叱咤激励しつつ、10年以上現地で働いたのです」

山本被服の前身である、スターオーバーオールコーポレーションの写真。向かって左が高祖父・彦太郎。中央は同社役員、その妻、娘。
山本被服の前身である、スターオーバーオールコーポレーションの写真。向かって左が高祖父・彦太郎。中央は同社役員、その妻、娘。

 ゑきさんは、洗濯の仕事をしながら、洋服の構造や材質を観察。当時、炭坑夫の作業着だったオーバーオールを手縫いで仕上げて販売することを発案し、実行。すると、飛ぶように売れました。それから程なく、1923年にロサンゼルスで『スターオーバーオールカンパニー』を設立。ここで、山本被服は創業しました。

 創業から3年目に、彦太郎とゑき夫妻は帰国。約15年ぶりに祖国の土を踏みました。その手には、アメリカで「バカ売れ」した、デニム素材のオーバーオールがありました。

1926(大正15)年、静岡県沼津市で活動を始めた「合資会社山本被服製造所」
1926(大正15)年、静岡県沼津市で活動を始めた「合資会社山本被服製造所」

 「高祖父夫妻はこの優れた機能の作業着を、日本の農家や酪農家に販売します」

 アメリカ仕込みの裁断と縫製、機能性を兼ね備えた服は、圧倒的に作業しやすい。加えて、安全で高機能であるため、あっという間に広まり、生産を拡大。そのときに、工業用ミシンを導入し、大量生産に舵を切ったそうです。

 初めて日本で作業服を生産販売した、ユニフォーム、作業服のパイオニア企業ということになります。

 彦太郎夫妻の事業を後押ししたのが、時代でした。第一次世界大戦(1914~1918年)以降、重化学工業を中心に工業化が進み、工場労働者は急増。富国強兵政策に伴い、全国各地に工業地帯ができます。

 「そこで求められるのは、安全で機能的な服。山本被服は素材も機械技術もすべてがアメリカ仕込みですから、受注が殺到したそうです」

 第二次世界大戦が始まると、海軍指定・陸軍監督工場となり、公民双方の経験を重ねながら発展してきましたが、沼津空襲が襲います。

 「1945(昭和20)年7月17日未明、マリアナ基地を出撃した米軍機130機が9077発、1039トンに及ぶ焼夷弾を沼津の街に投下。家も工場も全焼します」

池に沈めたミシン
池に沈めたミシン

 このとき、二代目の清さんは「ミシンがあればなんとかなる」と池にミシンを投げ込み、戦火から守ります。「会社、産業、従業員を守るという狂気に震え、身が引き締まる思いがします」と、山本さんは曽祖父について語ります。

 終戦後、池からミシンを引き上げて、工場を再建。

 「曽祖父や祖父の時代は、戦後復興と高度経済成長の波に乗りましたが、物資不足や人手不足など事業は苦労がつきもの。事業を推進することは、“泰山の雨垂れは石をも穿つ”ようなものだということを、家族の会話の中で聞いて育ちました」という山本さんに、身近な大人は「会社を継げ」とは誰も言わなかったそうです。

 「でも、父や祖父、その上の先祖たちとの心の結びつきは強く、彼らが並々ならぬ苦労をしてきたから今がある。そこで私が継がないという選択肢はありませんでした」という山本さんは、地元の高校から、京都の大学に進学し、卒業後の就職先には地元の静岡銀行を選びます。

山本被服代表取締役社長・山本陵 1982年静岡県沼津市生まれ。立命館大学卒業後、静岡銀行に入行、8年間、個人預かり資産、個人住宅ローン、法人営業を経験。2014年1月に山本被服に入社し、前代表(現会長)の父・豪彦(たけひこ)さんとタッグを組み、当時18億円だった売上を、27億円まで躍進させる。2024年2月代表取締役に就任。
山本被服代表取締役社長・山本陵 1982年静岡県沼津市生まれ。立命館大学卒業後、静岡銀行に入行、8年間、個人預かり資産、個人住宅ローン、法人営業を経験。2014年1月に山本被服に入社し、前代表(現会長)の父・豪彦(たけひこ)さんとタッグを組み、当時18億円だった売上を、27億円まで躍進させる。2024年2月代表取締役に就任。

 生まれ育った静岡県の地銀に入行した山本さんは、法人営業を経験します。そこで、地元企業の経営者から、祖父や父の話を聞いたそうです。

 「父や祖父、私の家族の“経営者としての顔”を知るのは、いい経験になりました。判断力、行動力、着眼点……他の方から聞く経営者としての優位性は、自己成長のモチベーションになりました」

 刮目したのは、山本さんの祖父についてです。「1990年に中国福建省で『福州山本服装有限公司』を100%独立資金で設立。地元でもその先見性は話題になりました」

100人の熟練した職人たちが在籍する中国工場。山本被服は年間50万着を生産しているが、その8割が中国で作られている
100人の熟練した職人たちが在籍する中国工場。山本被服は年間50万着を生産しているが、その8割が中国で作られている

 さらに祖父は営業拠点を、静岡市、神奈川県海老名市、東京都港区虎ノ門に設けるなど、事業拡大にも熱心であり、それは現在も会社に利益をもたらしています。

 山本さんは30歳のときに、銀行を辞め、山本被服に入社することにしました。

 親から子へと受け継がれながらも、成長し続ける企業によくある経営者の性質に“攻と守の繰り返し”と言われます。山本被服も、創業者夫妻が開拓した事業を、2代目は政情不安や戦争をものともせずに守ります。

 時代背景にも左右され、それを引き継いだ3代目は海外に製造拠点を設け事業を拡大。4代目がそれを定着させました。「私は5代目なので“攻め”なのでしょうか」とはにかむ山本さんは、「“守り”にあたり4代目の父から教わり、魂に刻んでいるのが“積小為大(せきしょういだい)”という言葉です」と続けます。

 この言葉には、1本の糸で布を縫うという、“小さな”作業から広がる“大きな”信頼や、1枚の作業着を納めて得る“小さな”利益の積み重ねが“大きな”価値になるなど、さまざまな意味があります。

 「作業服や制服は業種によって、求められる機能は異なります。難燃性、耐熱性、耐薬品性、静電性、防汚機能、抗菌、消臭、吸汗、速乾、軽量、伸縮性……私たちの作業服を着て現場で働く人が、寒くも暑くもなく快適であるように、指定された素材を組み合わせ、正確に服を縫い上げていく。その姿に畏敬の念を抱きながら育ちました」と山本さんは幼い日の思い出を振り返ります。

 制服や作業服は基本的に、仕事の間ずっと袖を通しているものです。それゆえ、「作業服は命を守る道具であり、会社を表現する媒体です」と話します。

 その思いは、製作を手掛けているホンダの作業着からも学びました。「あの白い作業着には、創業者・本田宗一郎さんの哲学が込められています。作業着にはメッセージを共有する力もあると日々感じています」

 山本さんが5代目として代表に就任したのは、創業から100年目。

 「やるからには、100年先も選ばれる企業にすべきです。喫緊の課題である、人手不足に備える目的もあり、ムダな作業を省き残業時間の圧縮に着手。効率的な働き方のために、指示系統を少しずつ変えていきました」

 働きやすく休みやすい環境を整えたことで、若手を中心に離職率も下がりました。

 働きやすさのためには、風通しがいい組織にすること。「営業と工場にはお互いに“別の領域の仕事をしている”という、無意識の不可侵条約のようなものがありましたが、双方の接点を増やし、これを改善しました」

 「作業着はミリ単位の細部に神が宿ります。ボタンの間隔、ペン差しの角度、ポケットのサイズなどで着た人の仕事の効率性が段違いに上がるのです。双方の担当者が対面し、打ち合わせをする機会を増やしました」。これにより、製品の完成度とサービスの精度が向上し、多くの企業に選ばれる会社になっていきます。

 「現場で働いている職人さんとその技術をもっと知っていただきたい。そこで、地元の教育機関に向けた工場見学や、インターンシップの受け入れを積極的にしています」。その結果、新卒採用も増えて行きます。世代交代の狙いの一つは、企業価値のアップデート。山本さんはこの課題にも取り組み、日々奮闘しています。

 また、健康的な事業活動の継続のために、銀行での経験も生かして、資金調達を健全化。

 「どこをどう調べられても、隠し事がない財務状況こそ、信頼の証。これは従業員と会社の信頼関係の強化にもつながります」と言います。

 今、多くの作業服製造会社は、海外に生産拠点を移していますが、山本被服は国内の製造拠点を維持し続けています。

 山本被服は国内に生産拠点がある強みを生かし、小ロットかつ短納期を実現。加えて、デザイン性に優れ、働く人が快適に作業できるよう、仕事にプライドが持てるような作業服を生産し続けています。

 「私たちは作業着で日本の発展の一助となってきた自負があります。高品質な日本製の作業服や制服そのものがブランドであり、需要は高い。今後は、中国以外の海外販路を拡大するためのリサーチにも着手しています」と山本さん。海外の工場で、山本被服のユニフォームを着た人たちが活躍する姿が目に浮かびます。

1948(昭和23)年ごろのカタログ。デニム素材のオーバーオールとジャケットは時代を経ても色褪せない魅力がある
1948(昭和23)年ごろのカタログ。デニム素材のオーバーオールとジャケットは時代を経ても色褪せない魅力がある

 山本さんは、父とともに経営の中枢にいながら感じてきたのは、高祖父母から続いてきた、山本被服の先見性と技術です。

昭和6年(1931年)に商標登録のために出願・公告されことを示す資料
昭和6年(1931年)に商標登録のために出願・公告されことを示す資料

 「最も驚いたのは、国産初のデニム服を昭和初期に作っていたこと。これを知ったきっかけは、あるとき、金庫の中にデニム素材の服を商標登録した書類を発見したのです。この静岡県沼津市で、高祖父母は日本初のジーパン、デニムオーバーオールを作ったんだと、感動を覚えました」

 しかし、当時のデニムにファッション要素はなく、作業着でした。

 そこで、山本さんは、今の時代の流れに合わせ、ファッション性が高いアイテムとして復刻させる社内プロジェクトチームを立ち上げます。現場の工場長と打ち合わせを重ねながら、商品を完成させて行ったのです。

「スターオーバーオール」は、風合いが出る厚め生地を使用。ファッション性を高めるために、あえて粗い縫い目にしている。好評につき、2022年5月に「親子で着れるオーバーオール」プロジェクトをスタートするが、こちらもすぐに完売
「スターオーバーオール」は、風合いが出る厚め生地を使用。ファッション性を高めるために、あえて粗い縫い目にしている。好評につき、2022年5月に「親子で着れるオーバーオール」プロジェクトをスタートするが、こちらもすぐに完売

 こうして、2021年秋、クラウドファンディングで「スターオーバーオール」復刻のための出資を募ると、わずか2週間で限定100着が完売。

 このプロジェクトの成功を受け、オーバーオールは通販で販売を継続。狙いは作業服のパイオニアである山本被服の存在と認知度を高めること、先人の苦労に報いること、BtoCの領域も広げること。

 「私たちはBtoBの企業活動を続けてきました。私はより多くの人に、私たちの技術の素晴らしさ、そして存在を知っていただきたいのです」

 服は道具であるが、ファッションでもある。「おしゃれ」に特化し、ライフスタイルを提案する服を作ることは、若手を中心に社員のモチベーション向上にも直結。「次の100年を見据えて今後も自社に眠れる歴史資産を発掘していきます」

 一般への認知を高めるために、山本さんは自社ブランドも立ち上げました。「オーバーオールのほかに、スーツサロン『FILATURA(フィラトゥーラ)』も作り、広めているところです」。

 いずれも、まずは地元で支持される存在を目指し、イベントへの出展ほかPR活動を積極的に続けています。

 同時に、山本被服に地域全体への貢献を狙い、山本さんは、地元のJ3プロサッカーチーム『アスルクラロ沼津』のスポンサーになります。

 「チームの活躍は、沼津の魅力を広め、地元の心を一つにすることにつながります」

 同チームの監督は中山雅史さん。現役時代、“ゴン中山”として活躍した人気選手で、地元で注目されているチームです。

 「少子高齢化による内需縮小、自動化により人手が不要になるなど、今後、日本がどうなるかなど、誰にもわかりません。だからこそ、作業服に軸足を置き、さらなる企業価値を追求します」と語る山本さんは、地元の若手経営者の勉強会を立ち上げ、新しい知識や技術を貪欲に集め、考察し、吸収し続けています。

 「見聞きしたこと、感じたことのすべてが、我ごとではなく、山本被服につながっていく。経営者と会社の紐帯は、時間を経るほど太くなることを感じます」という山本さんは、作業服や制服に、どんなイノベーションを起こすのか。国内外のモノづくりの現場から注目されています。