東京繁田園茶舗のルーツをたどると、1815年、今の埼玉県入間市に開いた茶園にたどり着きます。会社としては、1875年に日本初の茶の直輸出会社として設立された狭山製茶会社(繁田園)が始まりです。東京繁田園茶舗は1947年、繁田さんの祖父弘蔵さんが、繁田園の東京支店として設立しました。
狭山製茶会社は今はありませんが、東京繁田園茶舗は独自の進化を遂げ、一時は杉並区外にも複数店舗を運営。経営を継いだ繁田さんの父豊さんは、2人の弟と忙しく店を切り盛りしました。
ところが1980年代、缶やペットボトル入りの緑茶が登場すると、「急須でいれるお茶」の市場は急速に縮小。都内の日本茶専門店も激減し、東京繁田園茶舗の売り上げもピーク時から半減したといいます。現在の店舗は阿佐ヶ谷と荻窪の2店です。
豊さんは2020年ごろ、親族が集まる席で「5年後に店を閉めようと思う」と宣言します。当時、百貨店勤務だった繁田さんの心は揺れました。「慣れ親しんだ店がなくなる寂しさ、お茶の文化を伝える場所が消えることの危機感を覚えました」
繁田さんにとって、小さいころから家業は身近でしたが、大学卒業後は都内の大手百貨店に入社しました。食品部門担当として年間120日は出張して地方を回り、物産展を企画。大学院でMBAを取得し、6年間の上海駐在も経験しました。
ただ、組織内の立場が変わるにつれて、プレーヤーとしての楽しさから離れていきました。消費者との接点が薄れ、「自分の手が届かなくなる感覚」にもどかしさを感じるように。小売りの原点に立ち返るには、「もう一度、一兵卒でやらなくてはいけないのではないか」と考えるようになりました。
さらに当時、父と事業を切り盛りしていた母が、腰を痛めて2週間ほど仕事ができなくなりました。母の不在が店の将来を考える機会となり、「店舗を整理した方がいいかもしれない」と頭に浮かびました。
店をたたむにも労力がかかります。「自分が入って緩やかに縮小していこう」と決意しました。
強みにプラスした「新しい売り方」
母からは当初、家業入りを猛反対されました。国際線の客室乗務員を務めた母は、繁田さんが積み上げたキャリアを手放して欲しくなかったそうです。
一方、父は家業入りを「すごく喜んでくれた」といいます。「楽しそうに仕事をしている息子に、継いでくれとは言えなかったんでしょう」と繁田さん。
周囲でも事業承継しない日本茶専門店が出る中、繁田さんは2021年4月、家業に入りました。
店舗整理も見据えたスタートでしたが、繁田さんは百貨店で培った仕入れの目線で、「すごくいいものを扱っている店」というのは確信していました。
多くの日本茶専門店が問屋経由で商品を仕入れるなか、茶園をルーツとする繁田園は、祖父の代から、鹿児島や京都などの茶畑に出向き、自らの目利きで、生産者から直接、茶葉を買い付けています。長年の信頼関係で、上質な茶葉のみを扱うことができていました。
百貨店で場数を踏んだ繁田さんは、この強みに「新しい売り方」を加えようとしたのです。
繁田さんは全国の日本茶専門店を200店以上リサーチして回り、品ぞろえや接客スタイル、試飲をすすめるタイミングなどを研究しました。現在、約50種類の日本茶を扱うほか、お茶の魅力を広めるため、荻窪店で抹茶やほうじ茶の味のソフトクリームも販売しています。
出版社出身のいとこが参画
繁田さんは百貨店時代に事業計画書などを多数書いた経験を生かし、事業承継・引継ぎ補助金を利用して、ECの活用などを盛り込んだ「経営革新計画」を策定。2022年1月、自身のフェイスブックにアップしました。
すると、いとこの藤田さんから「手伝うよ」と連絡が入ったのです。
藤田さんも父が東京繁田園茶舗で働いており、2人は小さいころから同じ敷地で一緒に育った仲でした。藤田さんは「繁田園がなくなるのは寂しい。自分にできることがあれば、という気持ちでした」。
藤田さんは大手出版社で海外営業や書籍編集に携わった後に独立し、書籍やウェブ媒体のコンテンツ制作、マーケティング支援を手がけていました。
藤田さんは外部スタッフとして、主に新規事業と広報を担当することになりました。
パッケージを変えて「体験を届ける」
藤田さんはまず、SNS(X、インスタグラム)のアカウントを開設しました。繁田さんが家業に入った後の2021年8月にECを立ち上げていたものの、当時はSNSとの連携がなく、新規流入が課題でした。
インスタでは、直接ECに飛べる導線をつくり、思わず投稿したくなるようなパッケージにリニューアルすることで、UGC(ユーザー生成コンテンツ)を狙いました。
藤田さんは「SNSがお客さんとのコミュニケーションツールになる時代に、どこにでもあるようなパッケージがネックでした」。繁田園に限らず、お茶業界では中身は違うのに、同じパッケージで流通しているケースも多かったといいます。
若い人にも手に取ってもらい、ユーザー発の情報発信につなげるため、藤田さんはパッケージのリニューアルを次々と進めました。
新しいパッケージは藤田さんの友人がデザインしました。お茶のパッケージでは珍しいカラフルで柔らかいタッチのイラストです。他ブランドとの差別化を図るとともに、東京繁田園茶舗ののれんのアイコンを入れて、一目で同社の商品と分かるようにしました。
繁田さんはただ売るだけでなく「いれ方も含めて、おいしいお茶を楽しむ体験をどうやって届けるか」を常に考えています。そうした思いから、パッケージの裏側には各茶葉に合わせたいれ方を、イラストと文章で簡単に説明しました。
イベント開催で広げた顧客層
繁田さんは2022年7月、父から経営のバトンを受け取りました。前向きに事業を進めるため、既存事業の拡大ではなく、新規事業にアクセルを踏み込みました。
日本茶の客層を広げるため、外部イベントへの参加や期間限定店の開設に力を入れました。繁田さんと藤田さんが自ら接客し、外国人や若年層にアピールしています。
例えば、地域のイベントでは、季節に合わせて「ナッツミルクほうじ茶ラテ」や「宇治抹茶グリーンティー」といった、特別メニューや新作を販売。お茶への興味を広げてもらうための工夫を重ねています。
2023年4月、東京・吉祥寺の商業施設で開いたポップアップショップでは、スペースの前面に並べた茶葉が興味を誘い、全体の約3割を外国人観光客が占め、購買力に圧倒されました。
「客単価がすごく高く、購入のエネルギーが明らかに違いました」
前職で海外営業を経験した藤田さんは、グローバル市場の可能性を感じ、海外進出を明確なビジョンに定めました。
パリの展示会に出展オファー
そんな折、東京繁田園茶舗に、2024年7月にパリで開かれる日本文化の総合博覧会「Japan Expo」への出展オファーがありました。
博覧会で日本の伝統文化を紹介する「WABI SABIパビリオン」を運営する一般社団法人ジャパンプロモーションの担当者が、東京繁田園茶舗のインスタグラムを見て「このパッケージなら海外でも喜ばれそう」とオファーしたのです。
実は同社のルーツである繁田園は1900年のパリ万博に出品したことがあり、124年ぶり2度目の挑戦になります。
繁田さんと藤田さんは「Japan Expo」を海外展開に向けたテストマーケティングと足がかりの場としつつ、国内の新たな展開につなげたいと考えました。
EU圏向けの越境ECも準備
繁田さんと藤田さんは出展費用を集めるため、クラウドファンディング(CF)に挑戦。期限を30日以上残し、目標の100万円を達成しました。200万円のセカンドゴールも設定し、出展ブースをサイズアップできました。
藤田さんは「2年間のSNSの成果」とみています。CFで応援してくれたのはインスタやXでつながっている人が中心でした。
「Japan Expo」では、リーフやティーバッグのお茶のほか、美濃焼の太白茶碗など29アイテムを販売し、茶道のワークショップも開く計画です。欧州では生産プロセスがより重視されることから、お茶ができるまでの流れや生産者を紹介するパネル展示も行います。
現状、海外で流通する緑茶の大部分は中国産が占め、抹茶に対して煎茶はそこまで認知されていないと言われます。それでも、繁田さんは日本の煎茶のポテンシャルは高いとみています。
繁田さんは「Japan Expo」開催前から、すでに出展の効果を実感しています。CFで成果を上げたり、出展のプレスリリースを出したりしたことで、来店客からも「パリに行くんだって!」と声をかけてもらうことが増えました。
インバウンド客にどうリピートしてもらうかは、以前からの課題でした。このため、グローバル市場開拓の一環として「Japan Expo」開催に合わせ、EU圏向けの越境ECサイトの開設も準備。パリの展示でファンになってくれた人がサイトに流入する効果も期待しています。
売り上げ減少に歯止め
代替わりしてもうすぐ2年。繁田さんの両親もベテラン従業員も挑戦を「とても喜んでくれている」と言います。
現在の従業員数はパートを中心に約20人。繁田さんは普段からスタッフ一人ひとりと1対1で話す機会を大切にし、「一緒に働く人が、仕事を自分事として楽しめる会社にしたい」と話します。
パッケージのリニューアルや積極的なイベント出展で認知を広げ、二つの店舗は少しずつ新規客を獲得。売り上げ減少に歯止めをかけ、2023年6月からは増収が続いています。
繁田さんと藤田さんがまき続けたビジネスの種が、今度はパリで大きく花開こうとしています。