桜木町駅の改札に近づくと、すぐ脇にある川村屋から、かつお節など天然だしを使った手作りのつゆが豊かに漂い、鼻をくすぐります。川村屋のメニューは天ぷらそば、うどん、いなりずしなど約15種類、一杯500円前後という低価格も魅力です。
定休日は年末年始のみ。17人の従業員を抱え、毎日4人程度の体制で朝7時半からオープンします。客層は40~60代の男性が中心ですが、女性の一人客や子ども連れ、外国人観光客など、毎日千人前後が訪れます。
駅の隣という立地からスピードを重視。東京都内の製麺所からゆで麺を届けてもらい、天ぷらは横浜市内の専門店からかき揚げなど数種類を仕入れ、食券での注文から1~2分で完成します。
「こだわりは天然だしを使った自家製つゆです。濃い口しょうゆを使った関東風の味わいで、そばや天ぷらとの一体感を楽しんでもらえるように工夫しています」と加々本さんは胸を張ります。
できたての香りや味を届けたいと、寸胴で1日約8回に分け、いずれも毎回だしを取るところから始めます。これまで女性従業員が多かったことから、重い寸胴を何度も持ち上げなくてもいい作業工程にしているそうです。
父が商社を辞めて6代目に
川村屋は1900年、当時横浜駅と呼ばれた今の桜木町駅に西洋料理店として創業しました。関内の料亭「富貴楼」のおかみ・お倉が、養女の名義で駅での営業許可を取得。1969年に店舗を拡大し、そば店も開業しました。
横浜博覧会を控えた1989年、駅舎の移転に伴い、そば・うどん店の専業となり規模を縮小しました。
このころ、加々本愛子さんの祖父が川村屋の5代目店主と懇意だった縁で、父の笠原成元さんが商社を辞めて入社。つゆの味の改良や作業効率化などに尽力し、2003年に6代目として川村屋の代表取締役に就任します。
「川村屋は生活の一部だった」
加々本さんは1991年、笠原家の次女として生まれました。そのころの川村屋は父が経営を一手に引き受け、祖母や叔母も従業員と店頭に立つなど家族で協力して営んでいました。
「店で余ったおそばが食卓にのぼったり、友達と連れ立ってお店に行ったり。川村屋は生活の一部でした。当時、店頭で販売していた瓶入りのイチゴ牛乳が大好きで、大学時代はまかないを楽しみに時々手伝っていました」
父から「継いでほしい」と言われたことはなく、大学卒業後は大手IT企業に入社。独自の基幹通信サービス部門で事務職に従事します。
突然の閉店、固めた決意
「2023年3月でお店を閉めることにした」。母からそんな言葉を聞いたのは、加々本さんが結婚し、子どもが生まれたばかりの2022年9月でした。店舗契約の更新を前にしたタイミングで、父も含めた働き手の高齢化が理由でした。
「父は70歳を迎える年で、従業員も全員70歳を超えていました。このまま契約を更新しても同じように続けるのは現実的ではない、と父は考えたようです。私は三姉妹ですが、皆惜しむ気持ちがありました。夫にも話しましたが、まだ子どもが小さく、継ぐのは難しいと考えていました」
「年中無休で懸命に美味しいお汁を作って参りましたが、ふと気が付きましたら従業員全員そして店主も高齢者になっていました」
閉店まで残り1カ月。そんな貼り紙で閉店を公表すると、常連客だけでなくしばらく離れていたお客も多く訪れ、連日のように行列ができました。
涙を流したり、1日に3回食べに来たり。惜しむ客が詰めかける様子を目の当たりにし、加々本さんは焦燥感にかられます。
「自分が手を挙げなければ本当に終わってしまうのではないか」
そして夫の雄太郎さんに告げます。「会社を辞めて継ぎたい」
雄太郎さんも「自分もできる限りのことをするから一緒に継ごう」と背中を押してくれました。
雄太郎さんは出張撮影サービスを手がける企業で正社員として働く傍ら、友人とオンライン英会話スクールを立ち上げ軌道に乗せています。
雄太郎さんは「結婚前から家業のことは聞いていて、『継ぐ』という未来が可能性の一つとしてあるのではと思っていました。愛子の気持ちが変わっていくのを近くで見ていたので、『継ごう』と話しました」と振り返ります。
反対する父を夫婦で説得
しかし、加々本さんが父に思いを伝えると、最初は反対されたといいます。
そば店はまとまった休みが取れず、店頭に立つ以外にも発注や経理管理、給与計算など業務が多岐にわたります。問題が発生すれば、店に駆けつける必要があり、仕事中心の生活になることを心配されました。
「商業施設に入るまで、川村屋は駅の中に店を構える『構内営業者』でした。単年度制の規約なので、駅の改修工事などがある場合は移転しなければなりません。今年はよくても、翌年営業できるかわからない。父はそうした立場を長年経験してきました。私には、企業の正社員という安定した職を辞してまで大変な思いをさせたくない、と思ったそうです」(加々本さん)
それでも、何度も話し合ううち「夫婦二人なら知恵を出し合って乗り切れるのでは」と継ぐことを認めてくれました。
noteにつづった思いに反響
店を再開するにあたり、加々本さんは父と商業施設や取引先との再契約に奔走しました。
「施設側から提示される契約書は他のテナント様と同じテンプレートになっていました。しかし、チェーン店ではなく1店舗のみで運営する川村屋には合わない項目もあったので、一言一句確認し修正する作業に時間がかかりました。私自身、父のサポートを全面に受けながら動きました」
一番の懸念材料は人材の確保です。ベテランスタッフを始め、元の従業員が半数ほど戻ったものの、さらに多くの人材を雇用するべく動いたのは、夫の雄太郎さんでした。
加々本さんは「夫は飲食店を経営する知人数人にリサーチして、評判の良い求人媒体を探してくれました。さらに求人広告を出すにあたり、川村屋の再開に向けた私たちの考えを発信しようと決めたんです」といいます。
加々本さんは2023年8月、投稿サイト「note」で「私が『川村屋』を継ぐと決めた理由」と題した求人募集の記事を投稿しました。
「こんなに多くの方に愛されているお店を絶対に無くしたくない。123年間紡いできた、かけがえのないこのお店を未来に残したい」という思いをつづり、スタッフ募集を呼びかけると、大きな反響を呼びました。複数のメディアにもストーリーが取り上げられました。
「より多くの方に知って欲しいと考えた時、硬い雰囲気ではなくカジュアルに思いを伝えられる『note』なら、相性が良いのではないかと決めました。私の気持ちを夫に伝え、文面にまとめてもらってから、noteによく執筆している夫の同僚にもブラッシュアップを依頼しました」(加々本さん)
店舗前にも求人ページへのQRコードを付けた紙を貼りました。応募や質問のやり取りはLINEを使い、スピーディーな対応を心がけました。「とにかく人がいないと始まりません。応募が1件来ただけでうれしくて、応募があると毎回すぐ返信しています」
こうした取り組みで、大学生や長年のお客、そば店の勤務経験者などから応募が集まり、1カ月足らずで7人の採用が決まりました。父は「以前、紙媒体で募集した時は電話すら鳴らなかったのに」と驚いたといいます。
雄太郎さんは「川村屋のストーリーを詳しくお伝えしたことに加え、求人媒体でも訴求の強みになるオープニングスタッフという点が決め手になったと思います」と話します。
新規採用でオペレーションを見直し
再オープンでは仕入れ価格に合わせ、値段を20~70円程度上げました。 以前は平日の方が忙しかったといいますが、再オープン後は土日の客が増え、遠方からも多く訪れるようになりました。
加々本さんは「新聞やテレビなどで川村屋のことを知り、横浜観光のついでに寄ってくださる方が多いのだと思います」。
新しい従業員が入ったことで、これまでのオペレーションも見直しています。
「先代のころから調理マニュアルは存在しましたが、ゆで時間のわずかな差や湯切りの仕方など、従業員によってややバラつきがありました。時にはそのズレがクレームにつながることもあったとも聞いています。個人差が出ないようにマニュアルを見直し、現在もブラッシュアップを続けています」と夫妻は話します。
マニュアルで伝わり切らない部分はベテラン社員が中心となって指導するなど流れが一本化し、スムーズにオペレーションが回っているそうです。
これを機会に、勤務時の会社方針などを明確にするべく、スタッフ向けのマニュアル改定にも取りかかっているといいます。
加々本さんは「お客様はこれまでと変わらない川村屋を求めていると思っています。代替わりしても大きく何かを変えようとは考えていません」といいます。
一方で、川村屋の魅力を多くの人に発信するため、SNSをスタートし、夫妻で運用しています。
「変わらぬおいしさ」を守るために
現在、加々本さんは週1~2回シフトに入り、厨房で調理しながら、父から経営を学んでいます。前職での事務経験から、数値管理などはスムーズに対応できますが、デスクワークから立ち仕事メインになったことで体力不足も痛感する毎日です。
目下の課題は急な人手不足への対応です。
「体調不良などで従業員が欠勤したときは、代わりの従業員を探しますが、見つからない時は私や夫がシフトに入ります。特に夫は週末の強い戦力です。でもやはり、休みが休みでない感覚があり、家族でのまとまった時間が取れない難しさを感じます」
再オープン後では初となる冷やしそば・うどんの提供も始まりました。温かい状態で出すそばより工程が増えるので、オペレーションの工夫など考えることは尽きないといいます。
閉店危機を経て、川村屋の歴史が再び動き出しました。
加々本さんは「一度は引退を決意した父ですが、今も私と並走してくれています。これから父には自分の時間を楽しんでもらいたい。安心して任せてもらえるようにしたいです」と話します。
「変わらないおいしさ」を守りたいと立ち上がった、7代目夫妻の挑戦は続きます。