スノーボードやスケートボード、そしてサーフボード…。スポタカの店内をのぞくと、他にはないスポーツ用品がずらりと並びます。アイテム数は全カテゴリーで6千~7千点にのぼります。現在は3店舗を抱え、心斎橋のスケートボード専門店「スポパー」の隣には、全天候型のスケートボードパークも設け、子どもたち向けのスクールを開いています。
2019年には、eスポーツ事業「スポタカEX」を立ち上げました。高橋さんは「顔の広い父や地域の町衆に声をかけ、人が集まる仕かけを考え、心斎橋でeスポーツの大会を開きました」。
スポタカは1922(大正11)年、大阪・なんばで創業しました。日本でサーフィンがはやり始めた1960年代、いち早く海外からサーフボードを買い付け、1990年代に年商は大きく伸びました。
「中学で剣道、高校でアメリカンフットボール、大学でゴルフをプレーしましたが、これらの用品はすべてスポタカでは扱っていないんです」
大学卒業後は大手IT商社で営業職を務めます。入社5年後の2015年、4代目の父勝彦さんから「あと1週間で(当時本店があった)道頓堀のスポタカビルを出て店を移転する」と告げられました。
当時は売り上げ減少や在庫の滞留で資金繰りが悪化。財務健全化のため、店舗を移転・縮小し、空いたフロアを貸し出そうとしたのです。
「未来永劫続くと思っていたスポタカビルを出るなんて。そんなに会社はヤバい状況なのかと、初めて意識しました」
高橋さんは27歳でスポタカに入ります。スポタカビルは最上階の12階に本社機能だけを残し、今に至ります。
「当時は甘い気持ちだった」
4代目の父について、高橋さんは「すごく勘が働き、先が読める人」といいます。心斎橋にスケートボードパークを開いたのは、東京五輪でスケボーが追加競技に決まる前年の2015年。高橋さんは「採算が合わない」と反対しましたが、「絶対にやった方がいい。金のことは心配するな」と押し切られたそうです。
「今はやって良かったと思います。五輪でスケートボードに挑戦する子どもが増え、将来の顧客を育てる施設になっています」
「まるで昭和」の仕組みを改革
高橋さんは多店舗展開する他社への対抗策として、EC展開を狙ったウェブ環境の整備を任されました。
同時に会社の問題点を洗い出そうと、積極的に社員とコミュニケーションを図ります。
「社内は、昭和かと思うくらい前時代的なやり方で回っていたのです」
当時はファクスやメモが飛び交う紙文化。財務も、お金が不足したら金庫番役のスタッフが社長に報告する仕組みでした。
高橋さんは、チャットツールの導入と、売り上げや在庫管理のPOSシステムの入れ替え、クラウド化など社内システムを整備。「今のやり方で慣れている」といった社員の反発もありましたが、徐々に移行させました。
その結果、売り上げ・利益・在庫などのデータが月次から週次で把握できるようになり、ECの欠品キャンセル率も3%から0.2%まで減らしました。
就業規則や人事評価をアップデート
高橋さんは、十数年アップデートされていなかった就業規則の見直し、職務規定の変更、人事評価の策定にも着手します。
それまでは組織内のルールが明文化されておらず、会社の方針を伝えきれていないという課題があったといいます。
「各マネジャーの個人の判断で物事を進めていたため、担当カテゴリーごとに考え方や文化が違いました。マネジャーは若手の意見を個人判断で取捨選択していたため、チャレンジできない環境ができ、上の言うことを我慢して黙って聞くスタッフもいました」
「古参メンバーからすると、私は外から来た異物だと思います。当時は制度や仕組みを変えるたび、社員一人ひとりに丁寧な説明を心がけました」
2017年、高橋さんは経営計画発表会を開き、初めてトップのメッセージを全社員に共有できる場を設けました。
コロナ禍で下した経営判断
2020年のコロナ禍による緊急事態宣言後、専務だった高橋さんは、パソコンの得意な社員を中心にECサイトを充実させ、ユーチューブチャンネル立ち上げなども進めます。
一方で、事業縮小と早期退職の募集も決断しました。
「コロナ禍は長期戦になり、人件費や固定費を削減しないと会社がもたないと判断したからです。経営にまつわる意思決定を、自分の手で行いました」
最もつらかったのが、古参メンバーの離職だったといいます。40人ほどいた社員が30人ほどに減った一方、現場との結束が高まったという面もありました。
若手社員をマネジャーに昇格させたのを機に、高橋さんは毎月の研修を始めました。一緒にマネジメントに関する本を読んだり、目標の設定のやり方を学んだりして、経営者へのギアを一段上げたといいます。
月1回、父から会社の歴史を聞く
「今年中に社長を譲る」
父からそう告げられたのは、2023年の元日でした。高橋さんは恐怖に似た気持ちを味わったといいます。
それまでの施策は、社長でなかったからこそ思い切り実行できました。しかし、社長就任が決まってからは、一つひとつの決定に慎重になりました。
「何か決めようとするたび、社員とその家族の顔が浮かぶんです。『本当にこれで良いか』と」
高橋さんは就任まで、月に1度、父に会社の歴史を語ってもらう時間を作りました。家業のことを知らなさ過ぎると思ったからです。
父は2002年、49歳で4代目を継ぎました。「父は、私の祖母で3代目の高橋満智子から何も聞かされず社長を継ぎ、50代でリーマン・ショックなど一番ハードな時期を迎えました」
それまで懸命に社内の立て直しを図ってきた高橋さんは、父にあまり良い感情を持っていなかったそうです。しかし父の苦労を聞くうちに「心境を理解できたように思います」と言います。
「今も話していて腹が立つこともありますが、それはお互い様。そう思えるようになったのも、会社をテーマにじっくり話せたからだと思います」
ミッションを社員に落とし込む
2023年11月に5代目社長になった高橋さんは、四半期に一度の従業員面接を始めます。2024年6月には、2019年以来の全社集会も開きました。
「関わる人々に新しい”出会い”と”楽しみ”の場を創出します」というミッションを社員に落とし込み、売り方を一緒に考えよう、という狙いです。
大阪で歴史と知名度を誇るスポタカの価値の一つが、「スポタカで初めて買った経験」です。1990年代まで、関西には「初めて親にグラブを買ってもらったのがスポタカだった」という人が大勢いたといいます。
「初めて」という体験は心に深く刻まれるはずと、高橋さんは考えています。
現在の戦略ターゲットは、親がスポタカを知るジュニア層、現在購入してくれている30~40代、スポタカを知っているが現在は購入していない50代以上といいます。
店舗では、豊富な商品知識を備えた20~60代のスタッフとの会話があり、スケボーショップの隣のスケボーパークでは、間近で技を見られます。ただ買うだけでなく、人との出会いや体験を提供することで、チェーン店やネット販売との差別化を図ろうとしています。
草野球に特化した店をオープン
2021年東京五輪で日本人選手が大活躍し、スケートボード人気に火が付きました。スポタカは2015年に、スケートボードパークを利用した子ども向けスクールを開講。「初めてのスケボー」という体験を味わってもらい、習い事にしていくのが狙いでした。
高橋さん自身も新たなトライを始めています。2024年4月には、草野球に特化した「スポタカベースボール」を独立移転させました。
業界の売り上げ構成比の半数以上は硬式野球です。その代表である高校野球は甲子園出場が目的になりがちですが、使う道具やユニホームには規制があります。一方、草野球に特化した軟式野球の楽しみを追求するスポタカベースボールでは、グラブもユニホームもカラフルな商品が並びます。
業界がリーチしにくい部分に特化することで、高橋さんは勝ち筋を見いだそうとしています。
「坊主頭などが嫌でやめた球児は意外に多いと思いますが、本来、野球は誰でも楽しめるスポーツです。初めての人はもちろん、大人になってもう一度始めたい人にチャンスを用意して、野球のプレー寿命を延ばしたいです」
根底にあるのは、祖父が社内で草野球チームを作って楽しんでいた思い出です。当時の写真を示しながら「皆さんにはこんな良い表情になってほしいんです」と言います。
スポタカの強みは「ミックス感」
高橋さんは、スポタカの特徴の一つに「何をしても許されるところ」を挙げます。
「例えば、野球やサッカーの専門店がeスポーツを始めても唐突ですが、スポタカは『OK』と許される。このようなミックス感は、積み重ねてきた歴史から生まれたのではと思います」
2024年7月に開幕したパリ五輪では、スケートボードやサーフィンなどに再び注目が集まっています。
型にはまらず自由な発想でプレーできるスポーツにフォーカスしてきたスポタカを率いる高橋さんは、これからもスポーツの楽しさを伝える「遊び心」のある会社を目指します。