目次

  1. 縮小する日本酒市場で成長
  2. 品質重視で生まれた大吟醸「獺祭」
  3. 日本酒の常識を破る造り
  4. 後継者に求められる意識

 日本酒の生産数量(清酒と合成清酒の合計)は近年、1975年の136万キロリットルをピークに、約30年間で約4分の1程度の33万キロリットル(2020年、ピーク比24.2%)まで縮小しています。

 縮小市場ではより一層価格競争が激しくなり、企業の生存が危ぶまれる状態となります。しかし、旭酒造は1984年から100倍以上の企業成長を果たしました。そのリーダーとなったのが、3代目社長の桜井博志氏でした。

国税庁「酒類製成数量の推移」より筆者作成

 旭酒造は1948年に創業し、当時は品質よりも価格を重視した2級酒を製造販売していました。博志氏(現会長)は76年、父が2代目社長を勤めていた旭酒造に入社します。しかしその後、酒造りの方向性や経営を巡って意見が合わず退職しました。

 1984年4月に父が急逝し、博志氏が3代目社長に就任します。当時の売上高は9700万円でした。生産量は最盛期の73年で約2千石(3.6キロリットル)ありましたが、継いだときには700石まで落ち込んでおり、年商も前年対比85%と大変厳しい状況でした。

 博志氏は厳しい状況下において、当時の看板商品であった「旭富士」の紙パック入りの販売や値引き販売などを実施。一時的に売り上げ増も図りますが、本質的な改善には至りません。

 博志氏は「現在ある酒を売る」というスタンスから「よい酒を造る」という視点に転換し、価格重視の2級酒をやめて、品質重視の大吟醸造りにチャレンジすることにしたのです。

 これまで大吟醸を造ったことはなく、最初からはうまくいきませんでした。生産を担う杜氏(製造責任者)に「なぜうちの酒は、よその大吟醸みたいにならないのか」と尋ねても、「とにかく大吟醸づくりは難しい」などと言われる始末です。

 そこで、酒造りを杜氏に任せるのではなく、社長自ら工業技術センターなどに足を運び、酒造りに関するテクノロジーやノウハウを学び始めました。

 酒造りは杜氏に任せるのが一般的だった日本酒業界で、「技術情報などは社長が集め、杜氏がそれを実行する」という珍しい日本酒づくりが始まりました。

 1980年後半、大吟醸であれば50%の精米歩合(酒米を削って50%としたもの)で良いところ、酒米の山田錦を23%まで削った大吟醸酒を製造することにしたのです。これがのちの「獺祭磨き二割三分」となりました。

日本酒の一大ブランドとなった「獺祭」(2018年、朝日新聞社撮影)

 1990年に「獺祭」の発売を開始。最高品質の日本酒造りに挑戦したことで消費者からも好評を博し、売上高も持ち直していきました。販売先も地元岩国ではなく、東京に進出したことも業績に寄与し、売上高も2億円ほどになりました。

 博志氏の取り組みとして、既存商品の「旭富士」の改善に留まるのではなく、本質を突き詰めて、本当に良いお酒を造るといった革新(イノベーション)に取り組んだことが大きいと思います。

 ファミリービジネスにおいては、1世代ごとに一つ大きな変革に取り組むことで、存続し続けることができると思います。

 例えば、トヨタグループにおいては、創業者の豊田佐吉氏が自動織機を発明し、これまでの家業を豊田紡織として設立しています。創業家2代目の喜一郎氏は豊田紡織に勤務しながら将来の自動車産業に希望を持ち、社内に自動車部門を立ち上げ、のちにトヨタ自動車となります。

 同3代目の章一郎氏はトヨタ自動車に入社し、建売住宅とマンション分譲を中心とした不動産開発部門と注文住宅部門を立ち上げ、現在のトヨタホームとして独立させました。同4代目でトヨタ自動車社長の章男氏は、実験都市「ウーブン・シティ」事業や、次世代を見据えた水素エンジン車の開発などを推進しています。

 獺祭の誕生で危機的状況を脱した博志氏でしたが、季節労働の杜氏が冬場に酒造りを行い、夏場は酒造りをしないことが課題になっていました。そのため、製造社員を雇用した場合、夏場に日本酒造り以外の仕事をつくる必要がありました。

 そこで旭酒造は1990年後半に地ビールの製造に参入しました。しかし、併設したレストランの経営で大失敗します。当時、売上高2億円程度でしたが、総投資額が2.4億円に膨らみ、資金繰りがうまくいかず、地ビール事業は撤退することになりました。

 地ビール事業の失敗で経営危機のうわさが流れ、杜氏が次の仕込み時期に戻ってこないという問題も発生しました。杜氏がいなければ日本酒造りができないというのが、当時の常識でしたが、博志氏は杜氏制度を廃止し、当時の製造部員4人と一緒に日本酒造りをします。

 杜氏に頼ることをやめたために、年間を通じた酒造り「四季醸造」ができるようになりました。さらに杜氏の勘と経験に頼るのではなく、蔵内の温度や湿度を年間保つ空調設備の導入や、生産工程もできる限りデータに基づくものに変更していきました。

 このような取り組みで、以下の効果が生まれました。

  • 材料の山田錦にとことんこだわりを持った
  • 年間で蔵内の温度と湿度などを保つことができる最新設備を持ち、2倍以上の生産量を実現
  • 杜氏ではない製造社員がマニュアル通りに酒造りを行い、可能な限り数値化して品質の安定化を実現

 日本酒業界の常識を打ち破る新たな日本酒メーカーの姿を実現したのです。

旭酒造がつくった12階建ての本社蔵(2019年、朝日新聞社撮影)

 その後、獺祭はおいしさが評価され、入手困難なお酒となっていきます。旭酒造は2007年から蔵の増設に乗りだし、15年には本蔵として、12階建て総面積1万1500平方メートルの大きな施設となり、旭酒造全体の生産規模は5万石(9千キロリットル)に拡大しました。

 生産設備を拡大できたのも、勘と経験ではなくデータに基づく日本酒造りができるようになったことが大きく、標準化ができなければここまでのスケールアップも望めなかったでしょう。

 また、博志氏が業界の常識を打ち破れたのは、自社の取り組みについて昼夜考え続けたのだと思います。論理的に物を考え続けると、その打ち手が業界の常識ではないような取り組みが出てくることもあります。

 その打ち手を本当に実行できるかどうかは、自分が納得できるぐらい論理的に考えることができたという信念があるか、そして飛躍する勇気を持てるかだと思います。

 博志氏が杜氏に頼らない日本酒造りといった飛躍した取り組みができたのは、ファミリービジネスに対する信念と勇気を持ち合わせていたからだと思います。

 17年前には博志氏の息子である一宏氏が旭酒造に入社し、獺祭の海外販売を推進しています。そして、2016年に4代目社長に就任します。一宏氏は19年に約20億円だった輸出高を、5年後には100億円にすることを目標として、現在、米ニューヨーク州に酒蔵を建設しています。

 父・博志氏は成熟市場で業界の常識を打ち破った日本酒造りに成功し、企業業績を100倍以上に拡大してきました。

旭酒造4代目としてさらなる成長を見据える桜井一宏氏(2022年、朝日新聞社撮影)

 一宏氏は日本国内にとどまらず、日本酒市場がまだできあがっていない海外市場に新たに日本酒市場を創造するという取り組みにチャレンジしています。その際は「打倒獺祭」を掲げ、海外では「Dassai Blue」という新しい獺祭ブランドに取り組むようです。

 また、22年春には大卒社員の初任給を21万円から30万円に大幅アップさせて、話題を呼びました。その前年には「基本給倍増計画」も打ち立て、品質向上の土台となる待遇改善に着手しています。

 筆者は事業承継のタイミングについて、先代が還暦前後、後継者が40歳前後が望ましいと考えています。それは、経営環境が大きく変化するなかで、若い経営者の感性が必要であることと、投資意欲などの経営マインドも高いことが挙げられます。

 もちろん、還暦を過ぎても、まだまだ経営意欲の高い経営者もいらっしゃいますが、後継者が若いうちに多くの失敗をしておくことも名経営者になるためには必要だと思います。

 一宏氏は幼少期から父・博志氏の取り組みも見てきたことでしょうから、そのチャレンジ精神をもって、海外でのブランド開発や生産拠点の設立、国内事業においても大胆な人事制度の改定に取り組んでいます。

 できるだけ若いうちに、後継者に権限を譲り、その手腕を発揮してもらうことが望ましいファミリービジネスの事業承継の姿と言えます。

 このように、家業を受け継ぐ後継者は伝統は尊重しつつ、業界の常識にとらわれない意識と業界の枠を超える意識を持ち、家業にイノベーションを起こして、新たな企業成長を志向していく必要があります。以前紹介したベンチャー型事業承継の一つと言えるでしょう。

 事業承継(経営承継)を円滑に進めていくための具体的な取り組みについては、拙書「『経営』承継はまだか」(中央経済社)をご覧ください。本書ではファミリービジネスが抱えている課題やその解決方法についても、欧米の知見を盛り込んだ内容となっています。ぜひ、ご参考ください。

《参考文献》

「『経営』承継はまだか」(大井大輔著、中央経済社、2019年)
「逆境経営」(桜井博志、ダイヤモンド社、2014年)
「獺祭の口ぐせ」(桜井博志、KADOKAWA、2017年)
「「獺祭」名乗らずNYで酒造り」(朝日新聞、2019/1/10)