目次

  1. 耳学問で経営の実態を学んでいた幼少期
  2. “社長のお嬢ちゃん”が自分の中に育て上げた「誇り」
  3. 「トラブルや不正の原因は”不満”」だった
  4. 「従業員の負担減が最優先」そのうえで利益アップへ
  5. 悪者になっても提案した 飲食事業の独立
  6. 「時代ごとに事業内容の正解は異なる」

 「物心ついてから、家業を通じて世の中を見ていました」という美樹さんの最初の記憶は、祖母が働く姿。1960年代に嫁入りした当時60代の祖母は、“男尊女卑があたりまえ”の時代に、専務としてビジネスの最前線に立ち、采配をふるっていました。

 「私が幼少期の1990年代当時、弊社は酒類・飲料・調味料の卸売業を営んでいました。大きな倉庫に膨大なモノが保管されており、そこから小売店やスーパーの発注に応じて、配送をするのです」

 美樹さんの祖母は億単位の在庫管理や取引を行っていました。ハイヒールにスーツ姿で現場の指揮を執る姿がカッコよくて、憧れていたことが原体験だと続けます。

美樹さんを抱っこしている女性が祖母・若林幸子さん。1932(昭和7)年生まれ。名門進学校・岡山県立朝日高校卒業後、中国銀行に入社。お見合いで祖父と結婚し、若林家に嫁いで家業に入る。専務としてビジネスの最前線に立つ。ハイヒールにスーツ姿、真っ赤な口紅とマニュキュア、脚を組みつつタバコをふかし、高速で電卓を叩く姿で知られる有名人だった
美樹さんを抱っこしている女性が祖母・若林幸子さん。1932(昭和7)年生まれ。名門進学校・岡山県立朝日高校卒業後、中国銀行に入社。お見合いで祖父と結婚し、若林家に嫁いで家業に入る。専務としてビジネスの最前線に立つ。ハイヒールにスーツ姿、真っ赤な口紅とマニュキュア、脚を組みつつタバコをふかし、高速で電卓を叩く姿で知られる有名人だった

 祖母は幼い美樹さんに、ビジネスのことや、銀行との交渉ごとを“子ども向けに翻訳”せずに話していました。「祖母は私を孫娘ではなく従業員として捉えていたのではないか」と、笑いながら当時を振り返ります。

 「卸売業は利益が薄い。何億円を売っても、手元に残るのは数万円で、売掛金が入ってくるのは2ヵ月後。これが回収できなければ、その分の借金を負う、ということをよく聞きました」

 卸売業者は、メーカーからモノを仕入れ、配達して取引先に納める。その代金である売掛金を「払ってください」と頭を下げて頼みに行き、回収するまでが仕事。

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