「物心ついてから、家業を通じて世の中を見ていました」という美樹さんの最初の記憶は、祖母が働く姿。1960年代に嫁入りした当時60代の祖母は、“男尊女卑があたりまえ”の時代に、専務としてビジネスの最前線に立ち、采配をふるっていました。
「私が幼少期の1990年代当時、弊社は酒類・飲料・調味料の卸売業を営んでいました。大きな倉庫に膨大なモノが保管されており、そこから小売店やスーパーの発注に応じて、配送をするのです」
祖母は幼い美樹さんに、ビジネスのことや、銀行との交渉ごとを“子ども向けに翻訳”せずに話していました。「祖母は私を孫娘ではなく従業員として捉えていたのではないか」と、笑いながら当時を振り返ります。
「卸売業は利益が薄い。何億円を売っても、手元に残るのは数万円で、売掛金が入ってくるのは2ヵ月後。これが回収できなければ、その分の借金を負う、ということをよく聞きました」
「そこまでしても利益は薄い。祖母から“事業は薄紙を重ねるように成長していくものだ”と何度も聞きました」
祖父母や父が、誇りを持って卸売業を続けていたのは、倉敷の街にモノが流通し、街全体が活性化するという強い思いがあったからです。
美樹さんは、祖母や父から、時代に合わせて投資をし、新たな価値を生み出すことの重要性も学びます。「祖母と父は、銀行から融資を受けて、当時はまだ珍しかった巨大なパーソナルコンピューターをいち早く導入。これにより、在庫管理のロスが激減。新たな価値を生み出すための先行投資は必要なのだと学びました」
1999年に5代目代表として父・毅さんが就任した頃から、本格的に別事業へと舵を切ります。その当時、大手小売店各社が卸売業の役割も担うようになり、地域の卸売業者はこれ以上進んでも苦しい道だと判断したからです。
毅さんは、2002年に長年営んできた卸売事業を黒字閉鎖。すでに新規事業として立ち上げて絶好調だった飲食業を拡大しつつ、運輸業、不動産賃貸業などを展開していきます。「父はカリスマ的経営者で、“俺についてこい!”というタイプです」。
父・毅さんは、入社当時の17億円程度の売り上げを、たった数年間で42億円まで成長させます。さらに、代表就任後に自身が立ち上げた20個以上の新規事業もほぼすべて成功させたのです。
“社長のお嬢ちゃん”が自分の中に育て上げた「誇り」
会社を切り盛りする祖母がロールモデルで、強い父に憧れて育った美樹さんは、地元の高校から同志社大学商学部に進学。美樹さんは幼い頃からまちづくりに興味があり、都市工学や建築を学びたいという想いがありました。
しかし、その道に進んでも、家業の躍進に貢献できるとは思えなかったために、同志社大学の商学部に進学。経営学を深めるために、『国内留学・単位互換』制度で早稲田大学商学部でも学びます。
「当時この制度を使えるのは、1学部に1人程度。努力と戦略で狭き門を突破しました」。東京にある早稲田大学で学んでいるときに、東京は桁違いのスピードと規模でビジネスが動いていることを感じます。そんな美樹さんは、大学卒業後も東京で働く道を選んだのです。
2011年新卒で入社したのは、大手金融機関。美樹さんの中では「家業は時代に合わせて事業を転換している。どんな事業だとしても“モノを売る力”は必要」と、筋が通った選択だったのです。
美樹さんは苦労を買ってでる性分。どうせやるなら厳しい世界で自分を磨きたいと、最も売りにくいとされる金融商品を売る大企業に入社します。
新卒時の美樹さんは、一部上場企業を担当する傍ら、空いた時間で自ら浜松町、新橋界隈の中小企業に飛び込み営業。巨大なオフィスビルの前でビラを配り、1日200件の営業電話をかけ続けました。重たい荷物を抱えて都内を走り回り、目標達成のために「自分を削り続けていました」と当時を振り返ります。
そんな努力を続けた美樹さんは、退職まで一度も営業目標を切ったことはなく、何度も営業成績の表彰を受けトップ賞を獲得。「大企業での営業のトップ賞が欲しかった」という美樹さん。その内心を推し量ると、将来、“社長のお嬢さん”として家業を継ぐときのための、“水戸黄門の印籠”を作りたいという気持ちがあったのかもしれません。
「努力をしてきたという実証のための結果と、自分の拠り所となる“誇り”を育てたかったのです。営業での経験は、苦しいことだけでなく、社会人としての根性が育ちました。加えて上司にも恵まれ、社員の立場に立ち、モチベーションをあげるコミュニケーション術や思考法を学びました」
営業としてさまざまな苦労を経験する中で決意したのは、「 “若林平三郎商店”の看板では、無茶なモノの売り方はやりたくないし、社員の人にもさせたくない」ということ。美樹さんはその後、マーケティングリサーチ会社に転職。そして2016年に、27歳で家業に入ったのです。
「トラブルや不正の原因は”不満”」だった
美樹さんが入社して担当したのは、居酒屋部門を束ねている子会社・心囃子でした。
「婿として家業に入り一緒に岡山へ来てくれた夫とともに、居酒屋部門の6店舗の立て直しを任されました。当時、不祥事やトラブルが毎日のように発生し、業績は地の底に落ちていたのです」
美樹さんは大学で経営を学び、大手企業でキャリアを積みました。「会社全体を観察し、問題点を見つけることは得意な方かもしれません」。
ただし、会社は社員やスタッフとともに運営し、育てていくもの。美樹さんは皆により良い環境で働いてもらうために、すぐに動き始めました。
「まずは状況把握と問題整理のために、私と夫、役員2人の4人でスタッフ約70人のヒアリングを行いました。そこで、トラブルや不正の原因は”不満”だと判明したのです」
長時間労働と膨大な仕事量で、みんな疲れ果てていました。店舗運営はまだまだ現場スタッフの“やる気と気合”に依拠する部分があり、疲弊して辞めていく人も多い実態に直面します。不満が募ってモチベーションが下がり、売上も利益も落ち、待遇は改善されない。負のスパイラルを断ち切るためには、労務面の改善が急務と美樹さんは立ち上がります。
「私がすべきことは、山積みの問題を洗い出し、優先順位をつけて解決することと、その後の“地ならし”です。これは、後継者だからできる仕事だと必死に取り組みました」。美樹さんは当時、妊娠していましたが、産前産後も店舗を回り続け、先頭に立って改善を進めます。
「従業員の負担減が最優先」そのうえで利益アップへ
疲弊し、雰囲気も悪い組織を前に、「まずは従業員の負担減が最優先。そうしないと、プラスアルファの取り組みは進まない」と判断した美樹さんは、各ポジションの業務をすべて洗い出し、負担となっている業務や工数の多い作業の業務効率化を図ります。
たとえば、月末の棚卸し時間を短縮するため、店舗ごとに導線を効率化。冷蔵庫内の食材配置も改善します。営業後の深夜に毎日30分以上かけて手書きしていた業務日報は、美樹さん自ら自動入力できるシステムを構築。これにより、記入時間は10分以下に短縮。
手書きのシフト表もスプレッドシートに移行し、店舗間での人員調整が簡単にできるように。これが大幅な人件費削減に直結。このような地道な積み重ねの結果、一人あたりの月間勤務時間が30時間以上削減され、従業員も負担軽減を実感していきます。
そこで満を持して着手したのは、売上アップに対するプラスの打ち手と、利益アップのためのコストカットでした。父・毅さんの方針で、30年近く緻密に記録してきた売上や集客、仕入れなどに関するあらゆるデータと財務諸表を、あらためて美樹さんの視点から分析し、従業員と共有します。
「父は数値管理を徹底していました。ですから、店長クラスの従業員は高いレベルで数値感覚が養われており、この組織ならもっと先にいける!と確信したのです」
売り上げアップには、目的が必要です。美樹さんはそれを自分の言葉で伝え続けました。
「皆の待遇や労働環境をより良くしたい。給与を上げるにも、休日を増やすにも、社員を増やして業務負荷を減らすにも、原資となる利益が必要。利益を残すためには、売上を伸ばすことと、コストカットしかない」
マイナスをゼロにするための問題対処に追われていた組織が、ゼロをプラスにする意識に変わった瞬間です。組織全体の行動が変わり、従業員主導での売上アップに対する施策やコストカットが自発的に起きるようになりました。
大改革の結果、落ち続けていた売上は着任から3年連続で増加し、利益額は2倍に。さらに、先代社長である父・毅さんが飲食事業を立ち上げてから30年間で最高の日商(1日の売上)記録が樹立されたり、店舗ごとの昨年の売り上げ対比記録1位を出したりと結果が生まれます。
そこで、美樹さんは間髪入れずに、公平性のある給与制度作成とベースアップの実施、1店舗社員2名体制を構築し、休日日数は年間40日も増加させました。これにより、20〜30代の若手の離職率が下がった。昇給が行われると、さらなるキャリアアップを目指したいと言う社員も出てきます。さらに、30年以上取り組んでいなかった新卒採用も再開します。
「父は人を引っ張る経営者ですが、私はまずは自分が中に入って結果を出し、背中を見せる。そして、応援してくれる人を増やす経営をしていきたい。一連の改革により、父と私の経営者としての資質の差が見えたことはとても良かったと思っています」
未来に向かって発展していくと組織の心が一つになった時に、コロナ禍が襲います。
悪者になっても提案した 飲食事業の独立
2020年から2年間、居酒屋の営業がほとんどできませんでした。時間ができた美樹さんは、「次の一手」を考えます。
「もともと、若林平三郎商店は代ごとに事業を転換しています。父が社長に就任してから20年以上が経過し、いよいよ事業承継も見えてきた。コロナ禍の苦しい状況は、次の方向性を考えるいいタイミングだと捉えなおしました」
若林平三郎商店が常に軸足を置いているのは、“地元への貢献”です。
先代の父は卸売業から、飲食業などを展開し、地域に“にぎわい”を創出しました。しかし、時代は変わり、少子高齢化も進む中、居酒屋での大規模な宴会や、“飲みニケーション”を行う文化は薄れつつあります。そこで、子会社の心囃子が経営する居酒屋4店舗の独立・委譲を進めることにしたのです。
「コロナ禍で先が見えない状況ではありましたが、どの店も、個人経営するには十分な利益が出ると踏んでいました。ただ、本社機能を抱えたまま、事業として存続させるとなると、厳しい」
美樹さんの強みは、会社全体の不均衡を見極め、“地ならし”ができること。若林平三郎商店には、運輸事業・不動産賃貸事業・外食事業・コンサル事業という4つの部門があります。
「居酒屋事業に携わった現役社員とOB、OGの中から候補者を選定し、独立希望者に2、3年かけて委譲していくプランを立てました」
父・毅さんが手塩をかけ、30年に渡り若林平三郎商店を支えてくれた大切な事業だからこそ、飲食ビジネスが休止せざるをえないコロナ禍しか、冷静に考えられるタイミングはないと判断。
居酒屋の委譲計画は、社長である父に提案する前に、まず、母と夫に相談。税理士が同席する経営会議に自身が作成した資料を持ち込み、ロジカルに説明することから始めました。
「父には過去の推移と現状、今後の予想を理論的に話しましたが、心情的に受け入れてはもらえませんでした。当然、対立してしまい、1年半ほど親子げんか状態。でも、若林平三郎商店の未来のためと信じ、私が悪者になってでも進めようと心を決めたのです」
現役社員とOB、OGのうち、特に目立った業績を残した店長以上の役職経験者を候補者にあげ、独立希望者を募ったところ、思いがけず多くの人が手を上げます。
「その時、父は“やりたいと言ってくれる人に、店を任せるのが一番いい”と思ってくれたようでした」
「時代ごとに事業内容の正解は異なる」
居酒屋事業の独立・委譲と同時進行していたのは、不動産事業部の立ち上げです。
美樹さんは大学進学前から「まちづくりに携わりたい」という希望がありましたが、家業に入ることを見越して商学部に進学しました。その後もずっと「家業を通じてまちづくりに携わる道を模索していた」と言います。
そんなとき、父・毅さんがとある経営者から「若林社長(毅さん)がやっていることは、都市開発ですね。田んぼしかない、単なる通過点だったところに店を作り、拡大し、人が集まるエリアにしたんだから」と言われたことを知ります。
そのときに「家業を通じてまちづくりと関わるにはこの道だ」と直感。ただ、自社で店を立ち上げるには、事業内容も含めスピードやリソースの面で限界がある。そこで美樹さんは「店を作りたい人の手伝いができる不動産屋というポジションは、まちづくりに繋がる」と考え、宅地建物取引士資格の独学を開始。1年間の勉強で合格します。
「倉敷美観地区から徒歩圏内の場所で生まれ育ち、本社もすぐ側にあります。若林平三郎商店も私自身も、倉敷の街への愛情は深い。そんな街の魅力を少しでも高め、世に伝えるお手伝いをする手段として、宅建業免許が欲しいと思ったのです」
美樹さんは、不動産屋は街のハブであるといいます。「ここにどんな店舗や施設があれば、このエリアの価値が高まるか、より魅力的になるかを考え、実行できるポテンシャルが不動産屋さんにはあるはずです」。少子高齢化の時代、倉敷の街を魅力的にしていけば、街は活気付き、来訪者も増え、さらに活性化していくはずです。
そして、美樹さんは、2024年8月1日に6代目代表に就任します。今後は父・毅さんから承継した事業に加えて、不動産部門も伸ばしていきたいと考えています。
「時代の流れとともに、世の中が求めるものや価値感は変わっていきます。後継者がすべきことは、時代を読み、本来の家業の役割と自社事業の差分を正すことです」
時代に即した労働環境を整え社員の心を一つにし、事業を考え続ける美樹さんが率いる、若林平三郎商店と心囃子。倉敷で163年重ねた歴史とともに、今後も成長していくはずです。