「海の生ハム」開発の4代目、漁師もマグロも生き残るため目利きを磨く
みんな魚を食べなくなったと言うけれど、マグロの可能性は限りない。「海の生ハム」を開発したヤマサ脇口水産(和歌山県那智勝浦町築地6丁目)の4代目仲買人は、漁業が生き残るための目利きになることをめざしている。(下地毅)
みんな魚を食べなくなったと言うけれど、マグロの可能性は限りない。「海の生ハム」を開発したヤマサ脇口水産(和歌山県那智勝浦町築地6丁目)の4代目仲買人は、漁業が生き残るための目利きになることをめざしている。(下地毅)
紀伊半島の南、「まぐろ」の看板とのぼり旗がおどる町に会社はある。生鮮マグロの水揚げ高で日本一の勝浦漁港は隣だ。脇口光太郎さん(53)が付加価値化を考えたのは、漁師のお叱りがきっかけだった。「どうにかしろ」。天然ビンチョウマグロの値が養殖ハマチの下にあることへの嘆きでもあった。
「それで、あ、ハムをつくろうと。イタリアにはマグロの生ハムがあって高級品だと聞いていましたから」
頭の中は「成功するイメージ」だけだった。3億円の工場を建て、一挙30匹に手を出した。相手は天然だ。1匹ごとに肉質も違う。熟成の過程でひび割れが続出した。塩が足りんのか。すると辛すぎて食えたもんじゃなかった。
「ボーンと買うて、全部やって、全部失敗しました」
魚の選別、塩漬け、燻蒸(くんじょう)、熟成で工夫を重ねて、「これ、生ハムやん」となったのは2005年だ。
模倣品の出現に「マグロの生ハム」から「海の生ハム」にかえて商標登録した。その後もいろんな魚を試して今はクロカワカジキを使う。特殊冷凍技術を使った加工品に売り上げは逆転されたが、知恵をしぼった原点だ。
創業は1897(明治30)年。もっと昔からてんびん棒をかついで魚を売っていた家系らしいが、曽祖母の商いを始まりとした。父親の代で仲買人一本となり、24歳で家業に入った。そのころの競りは午後8時半に終わり、次の仕事は5時間後の午前1時半から。「毎日がお祭りで寝られへん」
気がつくと、町の魚屋さんは量販店におされ、目利きも消えた。結果、真に「うまい魚」が減ったことが魚離れの原因だと考えている。
従業員は3人だった会社に今は70人が働く。「すべてマグロのおかげ。それなのに斜陽産業というのが腹が立つ」
漁師が安心して漁師でいられるために「ええ値で買う」ことの実践と、マグロを未来に残すことが使命だと思うようになった。乱獲を根絶したいから、針で釣るはえ縄漁法のブランド化を考えている。(2021年4月17日朝日新聞地域面掲載)
設立は1995年。水産卸業のほかにも、勝浦漁港の「にぎわい市場」で生マグロの解体ショーや直売店を手がけている。グループ3社の売り上げは15億~16億円、従業員はパートを含めて約70人。オンラインストアでも買える。
おすすめのニュース、取材余話、イベントの優先案内など「ツギノジダイ」を一層お楽しみいただける情報を定期的に配信しています。メルマガを購読したい方は、会員登録をお願いいたします。
朝日インタラクティブが運営する「ツギノジダイ」は、中小企業の経営者や後継者、後を継ごうか迷っている人たちに寄り添うメディアです。さまざまな事業承継の選択肢や必要な基礎知識を紹介します。
さらに会社を継いだ経営者のインタビューや売り上げアップ、経営改革に役立つ事例など、次の時代を勝ち抜くヒントをお届けします。企業が今ある理由は、顧客に選ばれて続けてきたからです。刻々と変化する経営環境に柔軟に対応し、それぞれの強みを生かせば、さらに成長できます。
ツギノジダイは後継者不足という社会課題の解決に向けて、みなさまと一緒に考えていきます。