地獄の経営だった10年間

 ヒロセエンジニアリングは1970年、弘世機械として大阪市で創業し、74年に尼崎市に移転しました。船舶用のタンクや排ガス出口管、生コンクリートのプラント設備を手掛け、鉄製品の設計から更新工事、メンテナンスまでワンストップで請け負う町の鉄工所です。現在の従業員数は8人(外注含む)になります。

 2代目の中塩屋宜弘(なかしおや・よしひろ)さん(45)は、26歳の時、先代の父が亡くなり社長に就任しました。宜弘さんは三男でしたが、長兄、次兄ともすでに他の仕事に就いていました。自身も別の鉄工所で働いていましたが、父親に「手伝わないか」と誘われて入社しました。

 当時、仕事は少なく、売り上げより借金の方が多い状態でした。「最初の10年間、経営状態は地獄のようでした」。それでも若さを武器に働き続けました。

宜弘さんの父が立ち上げた会社は、創業から半世紀を超えました
宜弘さんの父が立ち上げた会社は、創業から半世紀を超えました

 宜弘さんが33歳の時、妻の祥子(さちこ)さん(45)と結婚したのが転機になりました。2人は、幼稚園・小中学校の同級生で、地元の飲み仲間という間柄。家業経営者との結婚は敬遠される風潮がある中、祥子さんの母は「サラリーマンじゃない家業をしている人は、夢があるやんか」と後押ししてくれました。

 祥子さんは結婚前までパソコンスクールの講師を務めており、入社時は、「パソコンを使える人が入ってきた」と喜ばれたといいます。結婚後、経理の学校に通って簿記2級を取得。それでも資金繰りは厳しく、宜弘さん個人の貯金を取り崩して支払いに充てることも度々でした。

高価なプラズマ加工機を導入

 鉄工所は、鉄を「切る・つなぐ・曲げる」という三つの職人技を合わせて、製品を作り出しています。当時、案件ごとに必要な形に切断した鉄材を購入していたため、納期までに時間がかかっていました。そこで宜弘さんは、納期の短縮と内製化のため、2500万円もするプラズマ加工機の購入を、祥子さんに提案しました。

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