目次

  1. 家業発展への強い意志もなく
  2. 同年代の経営者に刺激を受けて
  3. オリジナルの「洋風味噌」を発売
  4. 父に直談判して社長交代
  5. ブランドづくりの障壁が無かった
  6. 新カテゴリーに挑んだ理由

――光浦さんは大学卒業後、すぐに家業に入りました。継ぐことは、いつごろから決めていましたか。

 子どもの頃から、(7代目の)父と一緒にしょうゆを絞ったり、配達を手伝ったりすることは日常で、嫌ではありませんでした。家業を継ぐことに疑問を持ったことはありません。

 素直だったというよりは、単に自分の将来について何も考えていなかっただけです。大学を出て戻ってきても、「これから家業を発展させるぞ」という強い意志もなく、淡々と仕事をしていました。

 家業に戻った時の従業員は、両親を含めて6人。しょうゆを充塡している女性は、私が幼稚園の頃から今に至るまで働いています。繁忙期は近所の兼業農家の方々が手伝ってくれて、まさに家業という感じでした。

大正時代の光浦醸造。馬がみそやしょうゆを運んでいました

――入社当時、光浦醸造はどういった状況でしたか。

 経営は安定していました。売り上げは4千万円ほどで、赤字はありません。みそやしょうゆは、9割が学校や病院、社員食堂などに卸す業務用でした。しょうゆは一升瓶のみ、みそは20キログラムや40キログラムの商品を扱っていました。

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