目次

  1. 急逝した父が残したもの
  2. めかぶ製品を主力に事業を拡大
  3. 「もうだめだ」壁のような津波が襲来
  4. 「高くなってもいい」原料を買い付け
  5. 背中を押した危機感
  6. 工場探しが難航

 カネキ吉田商店の創業は1965年。漁で生計を立てていた吉田さんの父が、稼ぎ口を増やすためにワカメやのりの加工を始めたのがルーツです。

 「小さいときは貧しく、両親も昼夜なく働いていました。当時はごちそうだったバナナを父がたまに買ってきてくれていたのですが、経済的にすこしずつ豊かになっていき、『これからもっとバナナが食べられるようになるんだ』という希望のようなものがありました。父も商売が楽しそうでしたし、私も家業をつぐのが宿命というように感じていました」

カネキ吉田商店の本社工場(宮城県南三陸町)

 高校を卒業した吉田さんは、仙台市のスーパーで働いたあと、21歳で南三陸町に戻って家業に入ります。そのころのカネキ吉田商店は従業員8人ほど、売上高3億円の規模に成長していました。1982年には法人化をし、現在の形になります。

 しかし、吉田さんが専務として会社を支えていた27歳のころ、入院中だった父が急逝。突然、社長を継ぐこととなりました。

 「最初の3カ月はひどい状況でした。でも世話になっていた金融機関にあいさつに行ったとき、担当者が『お宅は仕事の内容がしっかりしているので、金融機関としての支援体制は変わらない。あまり心配をしないで、季節の仕事を一生懸命やってください』と声をかけてくれた。おかげで、目の前の仕事に集中できるようになりました」

 「売り上げばかりをむやみに拡大するのではなく、最終利益がしっかり出るように」というのが吉田さんの父の生前の教えでした。その手堅い経営方針は、財務諸表にもきちっと表れていたのです。

 吉田さんはその後も父の方針を引き継ぎ、扱う品目を無理に増やさず、得意分野を深掘りする戦略で会社を成長させていきます。自分たちが日々食べている新鮮なめかぶの味を、遠隔地でも安心して楽しんでもらいたいと、加工や保存の方法を研究。スーパー側のニーズもくみとり、当時はなかったという三段パックのめかぶを開発しました。これが評判を呼び、全国チェーンのスーパーでも関東、関西と販売エリアが拡大していきました。

カネキ吉田商店の主力商品であるパックのめかぶ(同社提供)

 めかぶのほかにもウニなどの商品がロングセラーとなり、需要が拡大するなかで、2005年には隣の気仙沼市にも工場を増設します。宮城県内に4つの工場を構え、85人ほどの従業員を抱えるまで拡大しました。借入金比率をあまり増やさない堅実な経営で、ゆるやかな業績拡大を続けていきました。

 「めかぶの需要も一段落してきた。工場の稼働率を上げるために、今後どんなことをしていこうか」。東北の沿岸部を津波が襲ったのは、吉田さんが経営の次の手を考えていたころでした。

 2011年3月11日、午後2時46分。気仙沼市の工場の事務所で打ち合わせをしていた吉田さんを、大きな揺れが襲いました。建物は無事でしたが、直後に聞いたラジオから、津波警報が聞こえてきました。

 「最初は3メートルの津波予想だったんです。大丈夫そうだと思っていたら、急に予想が大きくなって、6メートルに上がった。これはもうだめだと思いました。工場内にいた20数人の従業員に、何も持たなくていいからとにかく高台に避難しようと呼びかけました」

 吉田さんは、工場から離れた高台で、津波を目にしました。「とんでもなく大きい壁が近づいてくるようだった」と振り返ります。工場は津波にのまれましたが、一緒に避難した従業員はみな無事でした。仙台市にいた吉田さんの妻と娘も、あとになって無事が判明しました。

カネキ吉田商店の工場の震災前(左)と、津波被害を受けたあとの様子(右)=同社提供

 被害の全容が見えてきたのは、南三陸町の本社に戻った3月12日のこと。県内4つの工場のうち3つが津波にのまれ、壊滅的な被害を受けました。唯一、高台にあった本社工場だけは壊滅を免れましたが、めかぶなどの原材料を保管していた冷凍庫や従業員宿舎もすべて流され、再開のめどはまったくたたない状況でした。

カネキ吉田商店の工場の冷凍庫(左)と、津波被害を受けたあとの様子(右)=同社提供

 水産加工業は、原材料・加工設備・従業員の三要素がそろわないと成立しません。カネキ吉田商店の場合、従業員の多くは無事でしたが、原材料を冷凍庫ごと喪失。加工設備も大部分を失い、本社工場での限定的な操業がせいいっぱいでした。特に原材料については、東北の沿岸部全域が被害を受けていたことから、他の地域からの調達もしばらく困難になることが予想されました。

 この段階で吉田さんは、再開に向けて大きな決断をくだします。

 まだ南三陸町でほとんど電話が使えなかった3月中旬。吉田さんは、内陸部へ買い出しに行く従業員にメモを持たせ、原料の調達先である東京の商社への伝言を託しました。

 「私たちは無事で、工場も復旧させる計画があります。なので、中国と韓国の取引先にも、原料のめかぶを間違いなく発送するようオーダーをいれてください」

 カネキ吉田商店では震災前、原料となるめかぶの多くを地元産でまかなっていましたが、全体の25%ほどは韓国・中国から輸入していました。そこで当座の原料を確保するため、めかぶの発送を中止せず続けるよう、商社を通じて注文を出したのです。さらにこう付け加えました。

 「震災の影響で、東北以外の他地域からも買い付けの注文がいくと思いますが、買い負けないでください。単価はお任せします。割高でもいいので、原料が確実にこちらに届くよう手配をお願いします」

原料となるとれたてのめかぶ。写真は2013年3月に南三陸町でとれたもの(カネキ吉田商店提供)

 こうして、まずはコンテナいっぱいのめかぶ(約20トン)の買い付けを確約します。その後は吉田さんも電話でやりとりをし、中国・韓国から年間で2千トンの原料を調達するめどがたちました。震災前は、地元産と海外産をあわせて年間で約2千トン調達していたため、地元から調達できなくなった分を輸入でまかなった形です。購入金額は総額4億円以上。調達価格は通常より1~2割ほど高くなりましたが、想定の範囲におさまったそうです。

 工場復旧のめどもたたない中での大きな買い物となりましたが、決断に「迷いはなかった」といいます。「震災があった日の夕方に、もう再建をやるだだろうな、やるしかないなっていうのは決めていましたから」。そう話す吉田さんの背中を押したものが、三つありました。

 一つは、販路を失うことへの危機感です。商品の供給が長く止まれば、スーパーなどの小売店は棚に空きが出ないよう、仕入れ先を切り替えざるを得ません。

 「再開が遅れれば遅れるほど、他の地域の企業にとって代わられる可能性が高くなり、一度棚をとられると回復も容易ではなくなります。せっかく工場が復旧しても、長年築いた販路が戻ってこないようでは厳しい。いかに早く復旧できるかが勝負だという気持ちは当初から強くありました」

 二つ目は、会社の健全な財務体質です。借入金の比率が少なく、地震保険にも入っていたことで、「お金の不安はあんまりなかった」と振り返ります。銀行との関係も良好だったため、何かあればちゃんと融資をしてもらえるという自信もありました。先代の父から受け継いだ経営方針が、危機のなかで会社の支えになったのです。

 三つめは、当時約80人いた従業員の存在です。「被災したのがうちだけだったら、商売をやめて、従業員には『別のところで働いてね』と言うこともできるかもしれません。でも実際にはうちだけじゃなく、沿岸部全域の会社が被害を受けて仕事場がなくなっている。会社に残ってくれた従業員のためにも、私のほうで仕事場をしっかり用意しないとだめだ、と強く思いました」

カネキ吉田商店の従業員。震災後の代替工場探しや復旧作業にも尽力しました(同社提供)

 原料の調達が先に決まった一方、それを荷揚げして保管し、加工する代替工場探しは難航していました。取引のあった県外の同業者に電話であたったり、直接訪問したりして可能性を探りましたが、設備の能力などなかなか条件が折り合いません。

 「困ったな」。7カ所ほどあった候補が頓挫した3月下旬。突破口になったのは、先代のころからつながりがあった青森の会社でした。

後編では、応急の生産ラインで出荷を再開させるまでを掘り下げます。