水産加工会社の長男として生まれた下苧坪さんは、常に海を身近に感じて育ちました。今は豊富な昆布を食べて育った質の高いキタムラサキウニを武器に、国内の一流料理店や海外市場へとシェアを拡大しています。
そのような海域では、ウニや貝類が豊富な海藻を食べて育ちます。卵を産み付けたり隠れたりする場所として小魚が大量に入り込み、それをエサにする魚も小魚を追いかけて沿岸を回遊します。
漁業者は十分な所得を確保し、海水浴客も多く、町全体が活気づいていました。そんな黄金期に幼少期を過ごした下苧坪さんは、小学校から帰ると、昆布の森をかき分けて泳いだり、貝を捕ってたき火で煮たり、父が仲間と所有するヨットに乗って釣りをしたり。海を身近に感じながら日々を楽しんでいました。
そんな暮らしが一変したのは、中学生になったときです。海洋環境の変化による漁獲量の減少などで、地域の水産業が伸び悩むようになり、父の会社も傾いてしまいました。家の車も高級車からボロボロの軽自動車に変わり、家計の危機を強く感じたそうです。
事業をたたむ水産会社が増え、観光客は減り、町はかつての勢いを完全に失いました。下苧坪さんはいつしか「この地域の水産業では生きていけない」と考えるようになり、高校から町外に出ました。
豊かな海を求め30歳でUターン
家業を継ぐ考えは全くなく、自動車ディーラーの営業マンになりました。仕事に邁進して初年度から好成績を残すと、生命保険の営業マンとしてヘッドハンティングされ、忙しい毎日を過ごしました。
転機は2010年に訪れます。営業成績は好調で同世代に比べて高い年収を得ていたものの、心にはむなしさと苦しさが蓄積していたといいます。お金だけを追いかける日々が続くうち、仕事以外のことを考えられなくなり、心が貧しくなっていたそうです。
豊かさとは何か、生きていく意味は――。ノルマや人間関係に追い詰められ、自分自身に問いかけるようになったとき、真っ先に浮かんだのは豊かな故郷の海でした。父親の病気もあり、30歳でUターンを決めました。
「通常のPDCAではだめ」
故郷に戻った下苧坪さんは、経営状況が苦しかった父親の会社を縮小・解散した上で、10年5月、海産物の加工・商品開発を手がける「ひろの屋」を創業しました。海は当時の豊かさを失い、地域の疲弊も進み、水産業の新規参入者はほとんどいない状況でした。
希望を胸にスタートしたものの、すぐに大きな試練に襲われます。11年3月、東日本大震災が発生し、津波が町をのみ込みました。市場や漁港も被災し、設備はおろか、商材になりそうなものもありません。
絶望的な状況だったものの、下苧坪さんは「失うものは何もないから、ポジティブに前を向こう」と考えました。炊き出しボランティアをしながら、唯一、販売量が確保できそうだった天然のわかめを手に、それまでの経験で培った営業力とガッツを武器に、首都圏の物産展でわかめを売るところから事業を立て直そうと奔走します。
「衰退地域の経営者は通常のPDCAではだめ。アクション・アクション・アクションでとにかく行動が大事だと思っています。人もいないし、お金もないので、行動するしかありませんでした」
収益拡大と藻場再生を目指して
徐々に商材を増やしつつ、自分の給料を確保するのが精いっぱいの状況が何年か続くなかで、一筋の光として見えたのが、本州で一番の水揚げ量を誇る洋野町産のキタムラサキウニでした。
わかめなど他の海産物に比べ、ウニの販売単価は高く、利益を確保しやすいといえます。しかも、洋野町産のキタムラサキウニは持続可能な漁法で、豊富な海藻をエサにした深いうまみが長所で、知る人ぞ知る存在でした。
それでも、生産地としての知名度は水産業界内でも高くない状況でした。「三陸産」の原料としてひとまとめに供給される中、下苧坪さんは品質の高さに着目し、「(洋野町産として)ブランド化すれば海外市場も狙える」と考え、「うに牧場」としてブランディングして国内外に販売してきました。
一方でウニは近年、水産業者を悩ませている磯焼けの一因と言われています。磯焼けが発生した場所では、大型の海藻が枯れ、岩肌が露出してしまいます。ウニやアワビのエサがなくなり、漁獲量の減少につながるだけでなく、小魚の産卵場所や隠れ家として機能する藻場がなくなることで、小魚とそれをエサにする大型魚も消失し、生態系の崩壊につながりかねません。
磯焼けの原因として、有力視される仮説の一つがウニによる食害でした。ウニは水温が上がる夏に活動が活発化しますが、地球温暖化で活動時期が早まり、エサである海藻が大きく生育する前に、芽から食べ尽くしてしまうといいます。磯焼けの発生した海域は岩肌が露出し、あたり一面を黒々としたウニが埋め尽くします。
そのような環境ではウニのエサも足りず、中身はすかすかになってしまい、商品価値はありません。十分に身が詰まったウニの市場価値が1個500円ほどの値が付くのに対し、身が入っていないウニは販売できないどころか、産業廃棄物として処分料を支払うことになります。
下苧坪さんは、これまでの「うに牧場」のノウハウを元に、身が詰まっていないウニを価値ある商品に変えるうに再生養殖事業を展開し、地元の漁業者の収益拡大と、藻場の再生で多様な生物が育つ環境を守ることを目指したのです。
「うに牧場」で進めたブランド化
「うに再生養殖事業」は、「うに牧場」で生産される高品質なウニをこれまで扱ってきた経験が大きく影響しています。
下苧坪さんはウニを販売するために生産者などを訪問しても、最初は門前払いでした。大手企業のサポートを受けて加工場などの設備投資を行い、2016年に入札権を得ることに成功。マイナスからのスタートと言っても過言ではない状況から、世界への扉を開くチャンスをつかみます。
実は、洋野町の沖合には先人が培った天然のウニ育成エリアがあります。広大な岩盤地帯が広がり、17.5キロにわたって溝が掘ってあり、大量の天然昆布や海藻が繁茂する地形になっています。
そこで育つウニは豊富かつ良質なエサを食べることで成長し、実入りも味も抜群の品質になります。下苧坪さんは「増殖溝」と呼ばれてきた仕組みで、「うに牧場」としてのさらなるブランド化に取り組みました。
レガシーと地域の宝を世界へ
ブランド化をさらに推進するため、18年には北三陸の地域食材を生かした加工食品の製造・販売、ウニの養殖事業などを行う戦略子会社「北三陸ファクトリー」を設立しました。
同社では、磯焼けを防ぐために駆除・廃棄された実入りの悪いウニを全国から集め、北海道大学らと共同開発したウニ用の飼料と専用のいけすで育てることにチャレンジ。8~10週間の給餌で、実入り、色、品質を大幅に改善し、天然と遜色のないおいしさを実現しました。
この取り組みは、日本と同じく磯焼けが深刻になっているオーストラリアでも注目され、現地の行政機関や大学などとの連携が実現しました。今後は日本のウニ再生養殖と同じやり方で、駆除されるウニを陸上で養殖し、オーストラリアから世界へ輸出する事業などに取り組む方針です。
下苧坪さんは、衰退する地域で絶望的な被害を受けながらも、地域に元々あった資源を磨き、世界への挑戦を続けています。オーストラリアの子会社は、2030年に年2億豪ドル(約200億円)の売り上げを目指しているそうです。
将来夢見るのは、事業で得た利益を漁業者や地域の若者に還元し、洋野町に豊かな海と確かな水産の未来を生み出すこと。先人が大切につくり育ててきたレガシーと地域の宝を手に、世界と勝負する日はこれからも続きます。
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