ロングセラーとは なぜ長寿?お菓子など16商品の開発経緯を紹介
ロングセラーとは、長期間にわたって売れ続ける商品のことを指します。食品やお菓子、万年筆など、大量生産・大量消費の時代にその名を刻み続けるロングセラー商品の開発経緯、長命の秘密を探りました。
ロングセラーとは、長期間にわたって売れ続ける商品のことを指します。食品やお菓子、万年筆など、大量生産・大量消費の時代にその名を刻み続けるロングセラー商品の開発経緯、長命の秘密を探りました。
ロングセラーは、一定の期間によく売れるベストセラーと違い、長い期間売れ続ける商品である必要があります。期間にはっきりとした定めはありません。
後述の16のロングセラー商品を分析すると、ロングセラーとなる商品には次のような要因が見られました。
ロングセラーとなる商品には、自分自身で新しい市場を作り出し、市場シェアを高く保っている商品が多く見られます。たとえば、「板チョコ」が主流の時代に生まれたポッキー、缶コーヒーや炭酸飲料が人気の時代に発売された「お~いお茶」など。
ただし、市場に受け入れてもらえるには時間がかかります。ポカリスエットは、営業社員が街に出て、少年野球チーム、銭湯の客、買い物中の主婦らに試飲してもらうところから始めました。
小林製薬の「ブルーレット」も、ブルーレットを無料配布し、取り付けて回ることを新聞広告で予告。名刺に「ブルーレットマン」と銘打った営業マンたちが家庭を1軒ずつ訪ね歩いたといいます。
先行者であるだけでは、人気は長続きしません。競合商品がまねできない差別化要因があります。たとえば、カシオ計算機の「G-SHOCK」。
「薄くて、軽い」ものが主流だった腕時計市場で、厚くて、大きいG-SHOCKは落としても壊れないという強みを発揮して徐々に人気が定着しました。
ロッテの「雪見だいふく」は、アイスを餅で包んだ和風というジャンルを開拓。さらに、秋冬限定販売という点でほかのアイスとの違いが明確でした(2018年からは通年販売)。
そして、もっとも大切なのは、ブランドを育てる意識です。実は時代に合わせて少しずつ味を変えているロングセラー商品は少なくありません。しかし、商品が大事にしてきた「価値」は大切に受け継ぎ、ときには原点に立ち返りながら、ブランディングに力をいれています。
ポッキーが提供する価値は「分かち合うって、いいね!(Share happiness!)」。商品そのものを超えて、家族との団らんや友人、同僚らとのおしゃべりの場で分け合うライフスタイルを提案しています。
ただし、チョコ菓子はライバルの多いジャンルです。森永製菓の「ダース」は、30周年を前にリブランディングを開始。ダースの原点に立ち返り、ゼロからブランドに向き合って出した答えは、「コクのあるミルクの味へのこだわり」でした。
その強みを軸にするため、現行品の「ダース〈ビター〉」と「苺のダース」は終売し、新しく「ダークミルク」と「全粒粉ビスケットクランチ」の2つの味を投入しています。
ツギノジダイで紹介した特集のなかからロングセラー商品の開発経緯、今後の展開を紹介します。
日本初の乳酸菌飲料、カルピスの発売日は、1919年(大正8年)7月7日の七夕の日でした。
価格は、大瓶400ミリリットルで1円60銭。当時は約170ミリリットルのラムネが8銭、180ミリリットルの牛乳が10銭で、カルピスはとても高価な飲み物でした。
キャッチフレーズ「初恋の味」が新聞広告に登場したのは、発売から3年後の1922年だったといいます。
お菓子の世界で有名なライバルと言えば、「きのこ対たけのこ」。ファンの間でどちらが人気か論争が続くなか、明治は2001年以降、二つの商品の人気投票をたびたび実施し、ライバル対決を演出してきました。
もともとのきっかけは、円錐(えんすい)形のチョコレート「アポロ」の製造設備を有効活用して、別のお菓子をつくれないかという検討から始まったといいます。
国内でコンビニや自動販売機が普及し始め、缶コーヒーや炭酸飲料が登場して人気となっていたころ、「家の外でも手軽に飲める緑茶の商品を開発できないか」と缶入り緑茶の研究開発が始まったのが、お~いお茶誕生のきっかけでした。
米菓大手の亀田製菓(本社・新潟市)は、前身の団体だった1950年ごろから柿の種を製造していましたが、ピーナツ入りの柿の種を発売したのは1966年でした。
柿の種とピーナツのパッケージ商品を全国で販売したのは、亀田製菓が初めてだといいます。その後、亀田製菓の柿の種は味や包装などに工夫を重ね、ロングセラーの道を歩んでいきます。
2017年、亀田の柿の種はJAXA(宇宙航空研究開発機構)の宇宙日本食認証を米菓で初めて取得。日本の宇宙飛行士が宇宙で食べられるおやつになりました。
創業者の阪田久五郎が、イギリス留学から帰国した友人の海軍技師から、みやげに万年筆をもらったのがきっかけだったといいます。
「セーラー」という言葉には、多くの水兵が協力して船を動かすように、社員一人ひとりが力を合わせて、海を越えて発展していきたいとの思いが込められています。
第二次世界大戦後、ふりかけの当時の主流は魚粉を材料に使った商品でした。しかし、高度経済成長で生活が豊かになるにつれて、ふりかけ市場にもバラエティーに富んだ品ぞろえが求められるようになっていました。
そこで、ふりかけはのりやかつお節を使ったふりかけを製造販売していた三島食品の社員の1人が、梅干しの色づけに使われていた赤しそに注目がきっかけでした。
しかし、納得できる原料になかなか出会えず、1988年、当時の社長がおいしいゆかりが作れるしその新品種を種から開発する取り組みに着手。完成したのは1999年でした。
薬用養命酒のルーツは400年以上昔にさかのぼります。東京など大都市への販路拡大は明治に入ってからで、戦中・戦後の徴兵や物資統制で一時は販売が落ち込みましたが、その後再び成長軌道に乗り、誰もが知るロングセラーの地位を築いたといいます。
競合商品が増えるなか、近年、ウェブでの販促活動に力を入れています。
パブロンの誕生は1927年、せき止め薬「パブロン錠」「パブロン液」としてのスタートでした。1955年、パブロンを総合感冒薬として本格展開するのは1955年のこと。高度経済成長とともに暮らしが豊かになると、総合感冒薬の大衆化は一気に進みました。
パブロンがお茶の間に浸透したのは、テレビCMの影響も大きく、ママ世代の人気俳優を起用し、家族みんなを温かく気づかう優しい母親のイメージを浸透させることに成功してきました。
1952年の発売当初の商品名は「江戸風味 お茶づけ海苔」。価格は1袋10円で、当時の物価からすれば高額の商品でした。それにも関わらず、販売は好調だったといいます。
次第に類似商品が出るなか、ブランドを守るため、1956年には永谷園の お茶づけ海苔」と商標登録をしました。
「永谷園=お茶づけ」というイメージを消費者に定着させるため、テレビCMのほか新聞広告などあらゆる媒体でプロモーション活動を展開し、商品と企業ブランドの認知を図っていきました。
焼酎特有の辛さや刺激感を求める40〜50代の男性層に支持されていたチューハイ。そんななか、キリンビールの担当者は「20〜30代の若者にも楽しんでもらえる新たな缶チューハイを作りたい」と考え、「チューハイを変えるチューハイ」をスローガンに商品開発を進めていきました。
時代の変遷や消費者志向に合わせてフレーバーを広げつつも、マーケティング部の担当者は「レーバー起点で考えずにチューハイのスッキリさ、爽快さを伝えること」を心がけているといいます。
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